15 えと・おーるつうしん15号 [2000.03] ■05号より
■11号より
■12号より
■15号より-1 -2 -3-
■16号より
■17号より-1 -2 -3-


2つの講演会に参加して          by NAGI

 私の親は、私が若い頃「今はそんなに口答えしているけれど、自分の子どもを持ったら親のありがたみが分かるから」と口癖のように言っていた。しかし、いざ自分の子どもを育ててみて分かったのは「子を持って知る子のありがたみ」だった。
 小さいときは、私を慕って「かあちゃん、かあちゃん」と呼ぶ子どものかわいい声やふくふくしたホッペがどんなに慰めや励みになったことか。そして、思春期を迎えては、まるで親を育ててくれているかのように、よく反抗してくれた。子どもとの間に「問題」が起こるたびに、私は自分のおかしさに気づかされた。むろん、泣きながらぶつかり合うそのときは、つらく苦しかったけれども、今は、「問題」が生まれ「壁」にぶちあたったときこそ、学びのチャンス、「問題で育つ」ということばが実感として残る。すらすらと進む状態は「できること」だけやっている状態でしかない。子どもがいなかったら、子どもが反抗してくれなかったら、「できる」ことだけの日常の積み重ねからどんな「わたし」ができあがっていただろうと思うと恐ろしい。まさに持つべきものは「問題を突きつけてくれる子ども」だ。
 今回2つの講演会にかかわって、「関係」にいいも悪いもなく、起こることにはすべて意味があるということ、そのとき自分がどう表現していくか、自分を裏切らないことばが出していけるかどうかということにおいて、共通していたと思う。鳥山さん、平井さん、堂野さん、3人の講師の方々は、その意味で「自分の思いと、それを表現する言葉」を大切にしている人だ。かんたんなようでむずかしい(と思いこんでいるだけかも)。現実には、私たちは「自分を裏切らない」ということと「相手とうまくやっていく」ということのバランスをとりながら生活している。
 しかし、できる限り自分を素直に表現していこうと思う。自分が信用できる自分になるために。そして、それが一番よく実践できる所が、講演スタッフとの「場」だと思っている。

 そうやって考えていくと、孤独だった子ども時代さえ、幸せなときに思えてくる。小学生の頃、私の深いところから出る思いを理解できずに、目の前の行動や言葉で判断して叱る親(だれでもそうだろうが)に背を向けて、30分かそこらのミニ家出を繰り返した。ひとり孤独をかみしめて、近所のたんぼや川の土手を歩いた。どこか遠いところに行ってしまいたい、何か私自身がしっくりとおさまれるそんな世界へ行きたいと、ひたすら歩いた。そのときのつらさ、やりきれない思い。そして、それが歩いているうち次第におさまっていく。私の頭や心の中で繰り返された自問自答。そして、友とした、にび色に光る夕焼け空、暗くさざめく川の面、麦畑、光る天の川。今、豊かな子ども時代だったなあと、思える。



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