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鳥山敏子講演会
「聞こえていますか、子どもたちの声が」
     ―いじめ・不登校への取り組みを考える―

 日 時 : 2000年11月18日(土) 午後2時〜4時
 会 場 : 久米町公民館 TEL 0868-57-2936
 参加費: 無 料
 主 催 : 岡山県教職員組合 教育運動推進センター 久米支部

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鳥山敏子 ワークショップ
「子どもは子どもを、若者は若者を生き、
    親は親に、大人は大人になっていくために」

 日 時 : 2000年 11月18日(土) [1] 午後6時〜9時
       2000年 11月19日(日) [2] 午前9時〜12時
                     [3] 午後1時30分〜4時30分
 会 場 : 福岡会館(津山市横山)
       JR津山線津山駅下車徒歩15分    ※駐車場有り
 参加費: 各3500円
 問合先: 前原 tel/fax 0868-66-2133
 主 催 : 鳥山敏子ワークショップ実行委員会


鳥山敏子講演会――わたし的まとめ    by NAGI

子どもたちは変わったのか――

私たちが子どもの頃は贅沢は言っておれませんでした。みな生きるのに必死で、「こころ」の問題を気に留める余裕もありませんでした。今は、衣食足りてやっと「こころ」の問題に気を向けることができるようになった時代だといえるでしょう。そういう意味では、子どもたちは「変わった」といえるかもしれません。子どもたちは、私たち大人に「生きるってどういくことなのか」「愛するとは何?、人間にとって一番大切なものは何?」と問いかけてきます。しかし、私たち大人は、そういった「心の面での探求」に応えることができていません。私たち自身がそのような成長の仕方をしていないのです。

突然「キレル」子どもたち

今ほど子育てが不安に感じられる時代はないかもしれません。子どもたちによる事件の急増――今や、特別な家庭の、特別な子どもだけが事件を起こしているのではありません。「ふつうの」「よい子」が突然キレテしまうのはどうしてなのでしょうか。私たち大人のあり方、社会のあり方が、子どもたちをキレルという形でしか、自分を出せないようにしているのです。事件が起きるたびに、苦しいよう、助けてようという子どもの、心の叫びが聞こえるような気がします。

大人になることがむずかしい時代

今は、子どもたちが人との付き合い方を学び、大人となっていく方法を示しにくい時代、大人になりにくい時代だといえます。以前の社会では大人になるための「通過儀礼」がありました。たとえば、モンゴル族では、一定の年齢になったら女の子は1週間山中を寝ないで歩くという修行を課せられます。また、アマゾンのインディオの男の子には毒を飲み、肉体の限界を試すという試練があります。これらは、「自分と向き合う」「死と向き合う」経験です。大人になるには、これほどに厳しい自分との対話を必要とするわけです。
それに対して現代の日本では、そのような「自分と向き合う」時間はありません。無自覚に「大人」となっていき、「親」となっていくのです。そこには、自己を見つめる厳しさも、経験から得られる「大人」としての実感もありません。 大人になることは、どういうことだと思われますか。自分の言葉で答えられますか。20歳になれば大人なのですか。経済的に自立していれば大人ですか。あるいは、精神的自立をいうのでしょうか。何年前からか、日本という均質化した社会の中で、群れから離れることへの恐怖で、身動き取れなくなっている若者が多いことに気づくようになりました。小学生の子どもですら「人間関係」を悩み事として訴え始めているのです。これは「自立」へ向かうプロセスが機能していないことではないでしょうか。私たちの社会は、大人になることを可能にするような育ち(教育)を子どもたちに保障していないといえます。

学校は「大人」になるための教育をしているか。

大人になるために「学校」へ行って勉強しているという考えがあるかもしれません。しかし、学校教育指導要領に従って教育するとどういう大人になるでしょうか。現実を見れば、「教科書を進めること」が教育の中味になっています。教科書に書かれた内容を教えることを「教育」とし、効率的に教科書を進めていくことが「目的」のようになれば、どういう状態が生まれるでしょうか。

まず、「感覚的、感情的なもの」が邪魔になります。膨大な量の事務的仕事をかかえた状態で、今の指導要領に従って、教えていくとすれば、教師は「子どもの声を聞いて、それに対して自分の言葉で返していく」教育はできません。授業を効率よく進めていくためには、教師は感覚的なもの、感情的なものを持っていてはできないのです。もちろん、子どもだってそうです。

また、日常的に起こる子どもたちの間の揉め事をできるだけ排除しなければならなくなります。本当は子どものケンカは「困ったこと」ではなく、「学び」のチャンスなのです。しかし、実際は「いいクラス=揉め事が起きないクラス」ですから、すぐ教師が出て行き、「解決」してしまうのです。これでは、子どもたちは内にたまっている怒りを出せないし、納得するという「経験」もできません。自分で痛みを感じ、自分の非を納得するチャンスを奪われ、生き生きしたリアルな体験を味わえなくなってしまいます。学校は、「集団」を学ぶところではなく、ただ「全体」を学ぶだけの場所のようです。これでは子どもたちは「生きる智恵や力」を育めず、身につけるのは、我慢、自己抑制だけです。
そして「よい子」を、実感のない毎日の中で続けていくことで、子どもたちのからだはどんどんニブクなっていきます。こういった枠をからだが受け付けなくなって、この路線から「降りる」一つの形が不登校となって現れます。また、不登校も、非行もできず、「よい子」として、からだに合わない枠の中で我慢を続けてきた子どもが、もうコレ以上モタナイとたまった怒りを吐き出すときは「突如、大きな暴力」となってしまうのです。最近子どもたちの日記の内容が「人の悪口や何年も前からのうらみつらみ」であることが多くなっています。そして女の子よりも男の子の方にこういう恨みがたまっていると思えます。
池袋で路上無差別刺殺事件が起こったとき、ちょうど東京都立大学で講演をしていました。そのときの、事件に対する大学生の反応は「刺したくなる気持ちが理解できる」というものでした。小さいときから「中学に受かるまでは、高校に受かるまでは、そして大学に受かるまでは」と、「将来」のために「今」を犠牲にして我慢してきたのに、大学に入った今、先行き保障のない世の中があるだけだということに気づいた、若者の本音が、そこにありました。

家庭もまた「大人」になることを学ぶ場でなくなってしまった。

子どもにとって一番の「大人」は、親です。自分の親を見て子どもは大人のイメージを作っていくのです。ところが、無自覚に大人となった私たちは、これこそ自分の人生というものを子どもに示してやれているでしょうか。世間体とか、経済最優先の生き方を示してはいないでしょうか。父親は「男」として、母親は「女」として、互いに自立しながら、よい関係を築けているでしょうか。そういったものがないとき、子どもは「大人」のモデルを持てません。
「親」というのはいったい何なのでしょう。世の中の大半の親が自信を持って「親である」ことを示せていないような気がします。今、親は、逃げないで、親になる訓練をしなければなりません。でも、この「親になるためのカリキュラム」は自分で作らなければならないのです。世間にとっていい人であることが大切なのか、自分を生きることを一番にしていくのか、考えなければならないと思います。佐賀のバスジャックの少年の親は「いい人」でしたが、子どもに真正面から対することができませんでした。あなたは、子どもの存在すべてを引きうける覚悟がありますか。

男の子が大人になることは、特にむずかしい

男の子は母からの分離が大きなネックになります。男の子にとって自立は並大抵のことではありません。男の子は「ウルサイ」と怒鳴ったり、時には暴力をふるうことでしか、母親の見えない支配から逃げることができないような状況にいます。母親は、心配したり、手をかけたり、言うなりになったり、叱ってみたり、時には泣き落とし戦術を使ったりして、子どもを翻弄しています。自分ではいいと思ってしていることなのにと思われるかもしれませんが、母自らが子から離れる決意をすることが迫られます。
特に今、社会が「通過儀礼」を持たず、また父親も大人としての「モデル」を示せないような状態です。男の子が大人の男になることがむずかしい時代です。
子どもは幼虫、さなぎ、そして、成虫、と節目節目を経験しながら「大人」になっていくのですが、今の若者、特に少年の事件は「大人になっていこうとする通過儀礼に失敗した」例でしょう。羽化に失敗して羽がひっついたまま飛べない蝶のようにもがいているイメージが重なります。私たち大人は大きな責任を負っていると思えませんか。

社会、地域が力をなくしてしまった

学校や家庭だけのせいではありません。社会自体が「リアル」なものではなくなっています。そして、「地域」というものもなくなっています。かつては、地域全体で子どもが大人になっていく過程を見守るシステムがありました。そこには、「生活」から学ぶという「体験」がありました。しかし今、生活からリアルさが失われています。生産も、死も身近に経験しない社会。また、「つながり」や「分かち合い」というものもない社会だといえます。

自分の子どもを自分で引きうけることのできる親になるためには

 まずできることは、からだに働きかけること。ここでいう「からだ」とは肉体だけを意味しているのではありません。心も魂も入っている存在全体をいいます。緊張が過ぎる、がんばりすぎると「感じるからだ」でなくなります。親自身がからだをゆるめて、子どもの声が聞けるからだになっていかなければなりません。と同時にパートナーの言葉が聞けるからだになる必要があります。男性は特に「仕事人間」として過ごしている時間が長いため、家に帰って「夫」「父」というからだを取り戻すことが難しくなっています。夫婦で本当の会話ができていますか。自分が本当に話し合いたいことが話せていますか。心が通い合わない、会話ができないという夫婦は多いと思います。今からでも遅くない、私たち一人一人が「大人になるためのステップを踏んでいく」ことが必要だと思います。

孤独を引きうけ、自分と向き合う覚悟を

そして、孤独を自分で引きうける覚悟が必要です。生まれて死んでいくのは自分一人という覚悟のことです。厳しいけれど、この自覚は人を深い存在にします。子どもはそこに本当の「大人」の姿をみるでしょう。
子どもから突き放されたり批判されたりすると、「こんなにしてやったのに。もう金など出してやるもんか」と居丈高に突き放す親と、「ごめんなさい、悪かったわ。あなたを傷つけてしまって。でもお母さんだって…・」とひたすら謝罪する親と、2通りあります。このどちらも、親としての気構えがありません。特に、親が自分というものを示すことなく、ただ謝罪する場合、子どもは親を自分の思い通りに動かすようになる(新潟の女性監禁事件があります)ケースが生まれます。ざんげして許してもらおうという魂胆が見える謝罪と、自分のやったことを引きうける覚悟を持っての謝罪は違うのです。子どもはうさんくさいものを見ぬく力を持っています。うさんくさいものが感じられたら、子どもはますます混乱するか、親というものに絶望するかです。自分のしたことを直視し、逃げない、そして、孤独を引きうける覚悟が必要です。
私はそのために、夢をみたとき、それを反芻し、夢を再構築する、夢の中の人と対話するということを、行っています。そして、その中で自分のあり方を思い巡らし、それを絵にしたり、文章にしたりします。それは、孤独だけれども充実した時間です。私は、そこで人間とは何か、生きるとは何か、まことの幸せとは何かを問いつづけていきます。
今の時代子どもを育てるということは、大きな不安です。逃げ出したい気持ち、押しつぶされそうになる気持ちが起こって当然です。その気持ちを正直に受け止め、大人自身自分をとことん見つめることです。そうすれば、子どもを見つめることも、子どもの本当の声を聞き、子どもの心の奥にあるものを見つめることも容易になっていくのではありませんか。一人静かに。孤独は悪ではありません。この広い世界にただ自分一人。自分という存在は何なのか。と深く見つめ、自らに問う作業。 そして、もし何か起こってしまっても、子どもから逃げないことです。この子を作ったのは親である自分、ということを認識し、決して逃げない。自分のいのちをかけて、子どもと向き合うことです。事件を起こした子どもを救えるのは、親の、このあり方です。

子どもに「罪の重さを経験させる」ことが必要――少年犯罪について

少年法の改正が問題になっていますが、罪を犯した少年に「罪の償いをさせる」のは、刑期を長くすればいいという問題ではありません。罪を「体験させる」ことが本当の償いです。自分がしでかしたことがこんなにも多くの悲しみを生んでいることを実感させなければ、真の更正はないでしょう。そのためには、加害者と被害者を分離してしまう、今のやり方は問題をあいまいにし、被害者の憎しみを増幅させます。
東京で、北村勇喜(*)くんが交通事故に会い、昏睡状態の10日間を経て亡くなりました。その間病院には勇喜くんの両親、兄弟、親戚、友人、東京賢治の学校のメンバーが集まり、祈りの輪を作りつづけました。そこでは、加害者のMさんを除外せず、祈りの輪の中に入ってもらいました。その体験によってMさんは、みんなの悲しみを体験し、自分がやってしまったことの重さを実感し、本当に謝罪する気持ちを持てたのです。勇喜くんの両親も、彼のことを加害者と呼ばず、「事故を共有した人」と呼びました。

この「体験共有」のプロセスが、今の法律のもとでは奪われているのです。

*TBS特集「学級崩壊」に出演した北村一家の次男。家では「よい子」、学校では「学級崩壊」の張本人だった、と語る。妻の投げかけに答えられない父に「自分の言葉でしゃべれよ」と鋭く迫る。

●わたし的に「講演会要旨」をまとめてみて●

「何か子どもとの関係を築く上でのヒントは」と頼んだ言葉に返ってきたのは、「孤独と向き合う」「親として子どもを引きうける」という答えでした。多分、今の社会に欠けているのはこの厳しさなのでしょう。子育てに困ったとき、私たちは、安易に専門家のアドバイスを求めます。自分の前にいる我が子の本当の姿が見えるのは他ならぬ自分なのに。まず「この子を見つめる、声を聞く」ことをしなければならないのに。
ガーデニングをしていて思うのですが、園芸店で苗を買ってくると簡単ですね。でも、種から育てた苗は、我が家の土に適応していて強いです。よそで育った苗はうちには合わないかもしれません。自分の苗を自分で育てる―面倒でも苦労が多くても、大切なことだと思えます。
とはいえ、鳥山さんのように孤独に深く深く穴を掘っていく作業だけだと、私たちはしんどさを感じます。だから、時には空を見上げたり、おいしいお茶を飲んだり、小鳥の声に耳を傾けることが必要でしょう。
私たちが講演会に向けて毎週開いてきたミーティングでの他愛もないおしゃべりや気持ちの分かち合いが、そして、講演会のあとの交流会でのゆるやかなときがそれにあたるのではないかと思います。私は、孤独と向き合い、自分の人生を引きうける覚悟を自分に求めながらも、やはり、まわりの人と気持ちよくつながっていきたいと思っています。
ところで、交流会での意見交換はたいへん好評でした。次の「鳥山敏子講演会」は、5人の質問者 対 鳥山さん、というようなQ&A方式でやったら、おもしろいのではないかとか、「鳥山敏子先生の公開授業」はどうか、とかアイデアがもう出始めています。
今回の会は4万円弱の赤字でした。このこともラッキーです。私たち、智恵を出し合って、赤字を埋めていこうねって、なんかやる気マンマン。そして、次の企画では、この通信を読んで下さっているあなたも、スタッフに入ってくださってる…なんて想像するのも楽しいことです。



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