33 えと・おーるつうしん33号 [2004.03.15] ■竹内敏晴レッスン
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たかが習い事、されど習い事    by H.K


 6歳の長女は2年前から、某楽器メーカーが開いている音楽教室に通っている。きっかけは「音楽を習い始めるのは、幼児期から」という、娘に対するおせっかいな親心からである。また、10数年前、独身だった私が趣味で購入し、ここ5年以上リビングに大きな顔をして鎮座しながら、ほとんど弾かれることの無かった電子オルガンの再利用という側面も相当あったと記憶している。
 娘はしばらくの間、楽しく電子オルガンを弾いていた。ところが、この楽器、家電と同じようにどんどんモデルチェンジを繰り返すという、やっかいな性質がある。そこで両親は悩む。「このままこの楽器を習わせていると、好きになればなるほど、買い換えを迫られる「無限地獄」に陥るのでは?」と。私は「ピアノの音色はシンプルだけれど、シンプルがゆえに奥が深い。ピアノを習った方が本人も後で喜ぶことになるはず」と考え、妻は「ピアノの方が結果的に安くつくし、私も弾ける(!)」とそろばんを弾いた。結局、かなり突然ではあったが、昨年夏、思い切ってピアノを購入した。

 皮肉なことに教室側からは「これはかなりやる気がある」と思われたふしがある。やがて娘は先生の熱血指導により、オリジナル曲のコンクールに出場してしまった。この5月からはアンサンブル形式の電子オルガンのグループレッスンと、ピアノの個人レッスンをそれぞれ週1回ずつ受けることになっている。
 そこで妻が今後の「抱負」を彼女に尋ねたところ、返ってきた答えは「アンサンブルは楽しい。でも、ピアノはどうかな」。

 かくして両親は悩むことになる。子どもに音楽の楽しさを味合わせてやりたい、という親心の一方で、「ピアノはいい」という自分たちの価値観の押しつけをしてはいないか、といった思いを抱えてしまうのだ。山陽新聞に連載された佐々木正美・川崎医療福祉大教授の子育てに関する文章の中で、「私たちは子どもの意志を尊重するよりも、親の『自己愛』を子どもに押しつけているのではないでしょうか」という問いかけがあったのを思い出し、より一層考えさせられてしまう。
 しかし、事は親の懐具合が複雑に絡む難しい問題(?)だけに、子どもの一時の感情だけを尊重しきれない側面も持つ。自らの経験から考えても、一見単調なピアノ演奏の楽しさがわかるのは、かなり先の話(私は小学校入学時に辞めた)であり、それまでは「たとえ親主導であろうとも、習わせ続けた方が結局本人のためになるはず」という信念も正直ある。
 複雑な思いを抱えていた私は先日、勤務する会社の先輩2人と、偶然この音楽教室のシステムについて話す機会があった。二人はともに、子どもが上達するのはうれしいけれど、やる気が出れば出るほど、果てしなく出費を迫られるシステムに、「どこまで引き込まれるのか」と、少々びびっていたように思えた。しかも、こうした習い事は妻主導で進められるのが常だけに、なかなかついていけない夫の戸惑いは計り知れないものがある。両先輩とも、立ち話ながら30分近くしゃべり続けたところに、この問題の根深さ(?)を感じざるをえなかったのである。

 将来、娘が音楽を生活の一部として自然に楽しむことができるならば、たとえ楽器メーカーの商業主義に乗っていたとしても、親の本望かもしれない。だが、これが親の「自己愛」に基づくものだとしたら…。あれこれ考えながら、妻と娘がピアノに向かう姿を眺めている。



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