2月11日,今年2回目の竹内レッスン.最初は,急なことなので,場所とか,参加者のこととか不安で,迷いました.でも頭での計算とは逆に,「する」という方向にからだが動いていきました.自分たちのために開こう,と決めました.そういうわけでえと・おーるつうしんの前の号でも特にご案内はしなかったのです.
それでもレッスン経験者を中心に20人以上の方が集まってこられました.
今回の「からだほぐし(揺らし)」は下半身に対して念入りに行われました.ペアを組んで,寝転んだ相手のからだを揺らしていきます.
また,相手のからだを台にして後ろ回りするなんておっかなびっくりのこともしました.グループで機械の部品になって動く,ということもありました.
そして,最後は「出会いのレッスン」.
レッスンに手を挙げた6人は全員女性.その中から2人がじゃんけんで選ばれ,部屋の両端に立ちます.立った途端その場の空気が張り詰めるのが感じられました.私たちは,固唾をのんで見守っていました・・・.
澤根 みどり
今回でとてもいいなぁ、と思ったこと。身体のあちこちが硬くなったり、こったりするのは、身体を硬くしてしまう何かが自分にあるから。だからマッサージ等で痛い部分だけをほぐしても、その何かがそのままならば、すぐまた硬くなったり、痛くなってしまう、ということ。まず、身体を硬くしてしまう何かがあること、そして、できれば、なにが自分の身体を硬くしているのかに気がつくことが大事だ、ということ。竹内さんは、このレッスンがそういうことに気がつくきっかけ、助けになればいいんだ、と言われていた。
これは身体だけのことではなくて、気持ちのこと、人間関係でも同じだと思う。落ち込んでしまったり、ついケンカしてしまう相手がいる場合には、なんとか回復したり仲直りしてもまた同じことになる。自分の落込むパターンというか癖とか、自分と相手とのケンカになってしまう要素とか、そういうことに気がつけたらいいんだろうなぁ、と思った。
そして「出会いのレッスン」というものも体験してみて、自分のこと、人と向かいあうということについていろいろ感じたり考えたりした。この「出会いのレッスン」は簡単に説明できないので、またの機会に。
NAGI
レッスンの合間,竹内さんがあるエピソードを語られた.
竹内さんは,あるとき養護学校で移動ベッドに寝かせられたままの子どもを見つけた.学校に来ているのだから少なくとも小学生の年齢なのだろうが,外見は弱弱しく,幼児にしか見えない.
何気なく目があった.竹内さんは近づいていって,おでことおでこをコッツンコしてみた.次にほっぺとほっぺをあわせてみた.そうやって,その子といろいろなところをコッツンコして遊んでいた.
するとそこの学校の先生が飛んできて「まあ,竹内先生,この子はどの人とも目を合わさない子なんですよ」と言った.
そのとき竹内さんは,反対に驚いた.
この先生は障害児のための教育を一生懸命やっている,善意の人だけど,子どもと「じかに触れていないのだな」と.
大人は「役割」を持って「目的」を果たすために生きる.あるいは,相手に対する「思いやり」とか「義務感」とかで対応する.そうやって,わたしたちは「何かのため,誰かのために」行動するなかで,ただそこにいたいからいるとか,ただそうしたいからするとかいうからだの動きを忘れているのかもしれない.
今回の「からだとことばのレッスン」では,初めて「出会いのレッスン」があった.
日頃,私たちは,何らかの役割を持って,その場ごとの社会的着物をまとって暮らしている.たとえば,母親,たとえば,職業人,たとえば,この人の友人,というように.
ところが,「出会いのレッスン」では, 何者でもない私自身になって相手と向き合うことを求められる.そこから何が起こるのかを,他の人は立ち会うことで経験する.
つまり,「出会いのレッスン」の前提は,完全に何の役割もなく素(す)のままの「わたし」として立ち,「あなた」と出会うというものだ.
しかし,今回のレッスンでは,その前提すら成り立たなかった.
一人は,相手を「仲良くなりたい知り合い」として,日常のレベルで見てしまった.
もう一人は,素の自分になろうと集中することに集中してしまった.
二人が立っている場は異なった次元になり,「出会い」はすれ違った.二人は動けなくなってしまった.緊張がその場に張り詰めた.私たちも,息を詰めて見守っていた.
ただ素(す)になって相手に対するだけのことがこんなにも難しいということをまざまざと思い知らされたところで,今回の出会いのレッスンは,終わった.
私自身,その場に立ちすくんだのは自分だという気がしていた.
「素(す)のわたし」って?
そして,その私が「じかに」相手に触れるときって?
どの「わたし」を思い浮かべても,何らかの役割をになった「わたし」しかいない.
もちろん現代社会の中で効率よく仕事をしたり,人間関係を円滑に進めたりするとき,「素のままでいる」ことがいい結果をもたらさないことの方が多い.
情報伝達のことばをかわす「わたし」にはそういう「役割」を持ったからだの方がうまくいく.
しかし,大切な人と,大切な思いを交す――魂と魂を触れあわせるというのは,「素」での交わりによって初めて本物となるのではないのか?
コッツンコしたいからして,コッツンコそのものを楽しみ,味わう.「あなた」と「わたし」が「素(す)のままでじかに触れ合う」――そんな時間を,今のわたしは持てているだろうか?
S
初めて経験する「レッスン」はよくわからないこともありました.これはなんのためにしていることなの?ととまどいながら一生懸命ついていっているという感じもしました.
でもからだを揺らしてもらうのは,気持ちよかったです.自分が相手の人をうまく揺らしてあげれたかどうかは自信がありませんが.
最後の出会いのレッスンでは見てるだけなのに緊張しました.でも,見ていると,前に出ている人のからだがこころを裏切っている,ということがよくわかりました.たとえば,「来て!」と言って誘っているのに,その人のからだはうしろに引いているのです.「来て!」と言わなくちゃいけない,と思って言っているけれど,ほんとは来て欲しくないのではと,竹内先生が指摘され,私もなるほどと思いました.こういうことは私もよくあります.それで苦しくなることもあるから,やっぱりからだは正直なんですね.
今,そんなふうに自分をさらけ出すみたいなことは,私は苦手なので,できないだろうと思いました.
主催者の人が「素(す)にならなきゃだめと言っているのではないんよ.そういうことに気づいてみるとどうかなってこと.そこからどうしようかというのは,その人次第で,それにいいも悪いもないんだから」と言われました.少し自分でもいろんなこと考えてみようと思いました.
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