映画「葉っぱのフレディ」(松山善三監督)上映会とみらいなな講演会(絵本「葉っぱのフレディ」翻訳者)がありました(主催:アトリエ21℃)。
みらいななさんとお食事をごいっしょしたとき、印象深いおはなしをいくつかうかがったので書き残しておきたいと思います。
その1 世界中で「葉っぱのフレディ」を読む。
松山善三監督は、「世界中で『葉っぱのフレディ』を読むといい。10年後に世界のどこで、だれが会っても『あの本読んだ?』と語り合うことができるから」というようなことを話されたそうです。こんなふうにいのちのつながりを考えられるんだなあと新鮮でした。
その2 いのちは直感の連続
「ある絵本をさがしにアメリカに行ったんだけど、目当ての本はなくて、倉庫に眠っていた『葉っぱのフレディ』が目にとまったんです。これだと思った。それを読んだその夜のうちに翻訳してしまいました。そして、その翌日、手書きの原稿を夫がパソコンに打ち込んだので、1日で翻訳は出来上がっていたんです。それから3年後、ほかの絵本の出版ができなくなって、なにかないかと探したときに出てきたのが、『葉っぱのフレディ』だったんです。こんなふうにフレディは直感の連続で生まれたんです。こんなふうな直感の連続がいのちです」。
このお話を聞いて、「直感ってなんだろう?」と思いました。直感って、浮かんでくるものです。思いつきという側面もあります。「葉っぱのフレディ」もアトリエ21℃の伊藤まゆみさんの思いつきで上映会が決まりました。アトリエ21℃でやっていることは「思いついたことを実現しよう」ということだと言えるかもしれません。大人と子どもの水彩画教室「3原色で絵を描こう!」、気ままなティータイム「ほっとカフェ」、ろうそくの灯りで過ごす「キャンドルナイト」など、構想をあたため、練りに練った企画ではなく、思いついたことを協力を得ながら実現していくというものばかりです。
かつては、「そんなしようもないことやっても・・・」とか「こんなことやってもだれも来てくれない」とあきらめていました。でも、「自分がやりたいことだから、だれも関心をもってくれなくてもやる」と決めてからは、反響が気にならなくなり、企画を素直に楽しめるようになりました。これは私にとっては大きな進歩です。そんなことが一つずつ実現していくと、いのちが形になっているという気さえしてきて、「いのちは思いつくことの連続」と思ったりもします。
その3 フレディには人格がある。
みらいななさんは、しばしば「フレディはシャイだから、最初は倉庫に隠れていた。いつもそう。隠れていてあとから出てくる。それから、最初は失敗して後から幸せになる。つい最近もミュージカル化の話が進んでいたんだけど、スポンサーが見つからなくて、『中止』とみんなに電話した夜に、なんと2000万円を出してくれるスポンサーが見つかってできることになったんです。」と話していた。
絵本ができて、100万部を越えるという絵本としては驚異的な売れ行きを見せる「葉っぱのフレディ」のストーリーに人格を認め、「フレディは・・・」と話すななさんからは、「私がやったから私のもの」という驕りは感じられなかった。
フレディの翻訳をしたり、本にしたり、ミュージカルをつくったりするときには、「最初は隠れていて後から出てくる」というパターンがあって、それがフレディのキャラクターなんだという。
自分がこうするから、そうなるというのではなく、フレディに関するプロジェクトには、ある性格があって、その流れでできあがっていくという感じなんだと思う。八百万の神々の性格が異なるように、なにごとにもいのちが宿り、それぞれに異なる性格が生まれるものなのかもしれない。性格に合わないことをしたら、むずかしいと感じるし、流れに乗れば順調に思えるだろう。
なにごともそのキャラを知れば、軽いお付き合いができそうな気がした。
それにしても「あとで必ず幸せになる」という確信のあるお話は聞いていて楽しかった。
こうして印象に残ったことを書きとめてみると、私は「いのち」について知りたかったんだなあと思う。「その1」の松山監督の話からは、「いのちの横のつながり」を感じた。「その2」の「いのちは直感」というお話からは、「いのちの時系列(縦のつながり)」を感じた。「その3」の「シャイなフレディ」のお話からは、「なにごとにもいのちが宿っている」と感じた。なにごとにも「いのち」があって、それがつながっているのなら、あれこれ自分だけで考えるより、耳を澄ませ、こころを澄ませて、いのちのささやきを聴いていきたいと思った。
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