39 えと・おーるつうしん39号 [2005.03.30] ■竹内敏晴レッスン
■最近のいろんなこと14
■家族を「する」
■口先徒然草24
■旅物語 らくだに乗って
■タマイグラばあちゃん
■こんちゃんのこの世的...
■インカの塩


チラシも同封していただきましたが、4月3日に岡山ふれあいセンターで上映会をします。今回、準備の段階で、たくさんの方にご協力いただいているのですが、その中には「えとお〜る」の読者の方が何人もおられました。ありがたく不思議なご縁です。ありがとうございます。

この映画のことではじめて私に連絡をとって下さった方は、邑久町の男性の方でした。「 僕は当日岡山におらんから行けれんのんじゃけど、この映画のチラシを見た時、はっとしたんじゃ。この映画には、大切な何かがありそうな気がする。それを伝えたくてあなたに電話しました。」と話し始められました。そして、「あなたはどこでこの映画を知ったんですか?」「どうして上映会をしようと思ったんですか?」、と尋ねて下さいました。「あなたは面白い人ですねえ」、とその方は最後に言われ、電話をきられました。

2月17日、朝日新聞の全国紙面に写真入の記事が載った日には、10人の方が問い合わせをして下さって、私の携帯にお電話を下さいました。鳥取、高知、広島からの予約も入りました。
この映画は、2004年にできたばかり、なかなか岡山では観ることができない映画だと思います。ぜひこの機会に同じ会場で、ご一緒に観ませんか?
今日は、上映会に向けての思いを書いてみようと思います。

『タイマグラばあちゃん』 岡山上映実行委員会  by M.I

タイマグラとは?

アイヌ語で、「森の奥へ奥へと進む道」という意味だそうです。岩手県の早池峰山のふもとの村で、昭和63年に日本で最後に電気がついたところだそうです。この映画の撮影が始まった頃です。その頃は、ばあちゃんとじいちゃんの2人しかここに暮らす人はいませんでした。今現在は17人くらいの人が暮らしているそうです。 この映画は、そこに暮らす、向井田久米蔵さんとマサヨさん夫妻の日常を15年間撮った110分のドキュメンタリー映画です。

上映会をすることに

私はこの映画を12月に東京で観ました。去年の夏ごろから腰痛がひどく、東京で気功を受けることにしたのですが、その便に、上映が始まったばかりで、東京でしか観れなかったこの映画を観てくることにしました。気功の旅の予定でしたが、腰が痛いにも関わらす、「ポレポレ東中野」に問い合わせた結果、1日目の夜にたいこの林英哲を撮ったドキュメンタリー『朋あり』を、2日目の朝に『タイマグラばあちゃん』を観ることに決め、気功はその時間をはずして2回受けることに決めました。気功と映画の旅になりました。

『タイマグラばあちゃん』を観たあと、私は、監督が15年間の撮影プロセスを綴った通信を編集した、「タイマグラ通信」という本と、ポストカードを買いました。そしてくるりと振り返ると、そこに、この映画のプロデューサーである伊勢真一さんが立っていました。「伊勢監督、この映画、岡山で上映会をしようと思います。会場が取れたら連絡します」と挨拶をしていました。即決です。

“極楽だ〜”

「飲みて〜時に飲んで、食いて〜時に食うて、寝て〜時に寝て、極楽だ〜」、とばあちゃんは言っていました。朝から晩まで動きどおしのばあちゃん、ちょっと動きすぎると足や腰が痛くて、自分で足にお灸をすえる場面もありましたが、決して楽な暮らしのようには見えません。水が流れなくなったら、ばあちゃんひとりで山の中へ入っていきます。水に浸かってホースを直す作業をした後は、冷えて足が痛かったみたい。ふ〜という呼吸が聞こえてきそうでした。
寂しがり屋の私は、ばあちゃんの暮らしを見ていて、「最後にはひとりなんだよなあ。誰もほめてくれなくて、誰も私に気づいてもくれない、見ていてくれる人もいないなんて、そんな暮らしが、私にはできるだろうか?」と思いました。ばあちゃんのたんたんとした暮らし、同じことの繰り返し、それに退屈してなんていられないばあちゃんの日常、「ばあちゃん、生きてる〜!」って感じました。涙がこぼれていました。

ばあちゃんの底力

ある年、すごい寒い冬で、農作物が凍ってしまい、全てダメになった時、ばあちゃんの隣に越してきた若い青年奥畑さんは絶望したそうです。ばあちゃんはそんな様子に何も言わず、黙々と次の農作物を植えたそうです。そしていつもと変わりない収穫をしたんだそうです。
山の狐や狸が畑を荒らしても、文句の一つもいいません。「うちら人間があとから来たんだから、山の動物にとっては迷惑な話・・・。」、と当たり前にばあちゃんは言っていました。

何といっても味噌づくり・豆腐づくり

大釜で大豆を煮て、ゴム長靴をはいた足で、踏んで踏んで味噌をこしらえる。あま〜い大豆の香りがしてくるようでした。湯気がふぁ〜と上がり、ばあちゃんはトントンと味噌玉を固めていきます。味噌玉の写真を見た私の娘は、「これ、全部このおばあちゃんひとりでするん〜?すごいなあ」、と驚いていました。豆腐も想像できないような大きなお豆腐ですよ。切り分けた一切れがレンガのようです。隣の奥畑さんに、その塊を4つもあげるシーン、私はとても気に入りました。
じいちゃんが生きていた頃、隣にひとりで越してきた奥畑さんはその後結婚し、最後の場面では奥畑さんの子どもは男の子が3人になっていました。そして、その子ども達が、煮上がった大豆をつまんで食べています。「あまい〜。ばあちゃんが生きてたときの、ばあちゃんちのにおいがする」、ってばあちゃんが立ち会って生まれた長男の大木くんが言っていました。今から3年前、ばあちゃんが亡くなったあと、奥畑さんは家族で味噌作りを始めました。

ばあちゃんは、もういない。ばあちゃんはいなくなったけれど、ばあちゃんがいつも見上げていたこぶしの花は満開の花をつけていました。


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