39 えと・おーるつうしん39号 [2005.03.30] ■竹内敏晴レッスン
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家族を「する」      by H.K


 わが家では8年前から、ほぼ毎年のように写真屋さんへ行って、家族4人の集合写 真を撮影するのが習わしとなっている。長男の誕生を機に、子どもの成長の跡を残そうと始めた。(夫婦の年輪を残そうとしたものではない。大人の「成長」はあまり見たくない)。きっかけは、妻が○十年前に米国を訪れた際、ホストファミリーの家のリビングの一角に並んだ家族写真を見て「素敵」と感じたこと、らしい。

 これまでに撮られた7枚を並べてみると、それぞれにエピソードがある。記念すべき第1枚目は3人で写っているが、妻のおなかには既に4人目がいた。4年前は、脚を撮られたくない妻が「上半身だけ撮って」と頼んだら、勝手にソフトフォーカスになっていた。1昨年は妻が「私があまり目立たないようにしてください」と注文すると、「ご主人の後ろに隠れて、横から顔を出してください」と言われ、妙に目立ってしまった。そして昨年は全員フォーマルウエアで決めてしまった。年中ピアノ練習に明け暮れた娘はドレス、 息子はそれに合わせてタキシード(もちろん借り物)である。どうでもいいことだが、私の目が年を追うごとに細くなっているのも、よく分かる。
 撮影のたびに、作家・藤原智美氏の著書「家族を『する』家」の内容を思い起こす。一つ屋根の下に暮らしている家族でも、別々の行動が増え、食事も一緒にとれないなどの理由で、つながりを実感することが難しくなった。現代の家族は「する」ものになっている…との内容だった。そう考えると、家族写真など、まさに家族を「する」ための典型的なツールのように思えてくる。

 ところで私は日々、どこまで家族を「して」いるのだろうか? 思い出そうとしてもなかなか場面が見当たらない。朝は子どもが学校へ行った後に起き、夜は9時過ぎに帰宅。一緒に食事をするのは週にせいぜい2日くらいだ。レジャーも少ない。ある時など「お父さん久しぶり。3日ぶりに顔を見たね」と、会ったことが話題になる始末だ。まさに父親失格なのか?
 将来、親子の断絶がきっかけとなり、バットで殴られたりして新聞ネタにでもなるのだろうか、と寒々しい想像さえしてしまう。
 だけど、じゃあどうすればいいの?と考え込むが、妙案など浮かびようも無い。それで、近ごろは開き直っている。子どもと接する時間が少ないのはどうしようもない。だれど、関心だけは持っておこう、と。情報源はおのずと妻に限られるが、そこで得たネタを本人さんたちに「当てて」、反応をみる。それを妻に返し、話を展開していくー。日ごろ仕事で行っている作業にも似ているが、「家族をする」ための意識的なコミュニケーションも必要なのかもしれない。何かを共に体験する機会が少ない分、せめて情報だけでも共有しておかなければ、という思いは最近強まっている。
 そのうち、マラソンの有森裕子さんの実家で見せてもらった家族新聞でも発行しようか。万一単身赴任にでもなったら、あれはなかなかいい道具になるだろう、なんてことも考えている。でも、聞いた話だけでは中身は薄く、感じいる部分が余りないような気もする。やはり一緒に体験してこそのものなのだろうが。

 再び家族写真である。今年は「和服でそろえたらどうか」という、とんでもない話が持ち上がっている。そのうち、コスプレの世界に入っていくのだろうか?  年に1回の遊びかもしれないが、それはちょっとご勘弁 を。誰かが本当にそういう趣味に走っても困りますので。


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