存在を消したい
「押し付けない・強制しない・命令しない」で、10年前にはじめた塾(すくーるらふ)は、「授業しない」、「放任しない」と「ない、ないづくし」だった。最初の何年かは、目立たないように机の配置を考え、威圧的な態度をとらないようにする、つまり、存在を消そうと努力していた。
ところが、生徒のお父さんの一言がきっかけで、私の思いが揺らぐ。「ここの塾は存在がなさすぎる」。指導者が手取り足取り教えなくてもできるように、生徒自身が自らの手で学習を進める塾にしているつもりだった。そのお父さんは、「算数プリントを月に20日以上やらなかったら好きなバレーをやめさせる」など、お子さんといろんな約束をしてやらせようとしていた。それはその家のやり方だからと否定するつもりはなかったし、そういうやり方をすることで満足されていると思い込んでいた。ところが、お子さんがなかなか家での学習ができなくなったとき、「存在がなさすぎる」という発言を聞いたのだった。「生徒への影響力を極力排除しよう」と思っていたことに疑問が生じたのだった。
創育舎誕生
学習塾としてやっていくためには、私が思うことは独りよがりなのだということはわかったが、単なる学校の補習だけをする塾や入試に合格するだけの塾をする気にはなれなかった。そんなところにいっしょにやらないかという人があらわれた。学習塾経験の長い常包(つねかね)さんだ。そのあたりから、この「らくだに乗って」がはじまったように記憶している。そんなこんなで、「楽しくわかりやすく教える塾には限界がある。自分で勉強するセルフラーニング力がつかなければ…」という常包さんと共同でやることになり、名前を「創育舎」にあらためた。
最初のコンセプトは「成績アップする塾」だったが、私たちのやっていることが浸透していくにつれ、「セルフラーニングができる塾」に変わってきた。時代の流れもあった。
確かな学力を身につける
文部科学省のホームページには「[生きる力]、[確かな学力]を育むことが必要です」と書かれている。
[確かな学力]とは、「知識や技能はもちろんのこと、これに加えて、学ぶ意欲や自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題解決する資質や能力等まで含めたもの」のことだそうだ。
創育舎でやろうとしてきたことは、このような「確かな学力」を身につけることが可能な場の提供だった。
生徒の声を聞いて一人ひとりの学習内容を相談する、最終的に決めるのは学習者本人だ。生徒と指導者が相談し、約束することで、「自ら学び、主体的に判断する」ことができやすくなっている。真っ先に育つのは、「いやなことはイヤ」ということだ。そこから、最初は「なんでもいい。先生が決めて…」と言っていた生徒の「やりたいこと」が見つかっていく。
そして、「なかなかクリアできないところ」、「習っていないところ」の教材に進んでも、そこであきらめず、工夫を重ねることで、「問題を解決する力」が育ってくる。
そして、このセルフラーニングのやり方で学習を続けている人たちには、一般的に言う学力はもちろん、自分で課題を見つけ、解決していくことも含めた「確かな学力」がついてくることがわかってきた。ただ、残念ながら、そこまで続かないことがある。私の力不足を感じたこともたびたびある。「できないことに立ち向かう力」があれば、どんな困難なことが起こってもこわいものはないけれど、人間そこまで強くはないのかもしれない。
主体的に学習するようになると
教室にはじめて来るとき、できないことを強制され傷ついている子やできないことを非常に恐れる子がいる。そんな子どもたちは、できないことに立ち向かう前に傷を癒し、自信を回復する必要があるのかもしない。算数のリハビリというと大げさだろうか。それには、まずできることを繰り返すことだろう。「できるんだ」という体験を積み重ねれば、問題に直面することもできるようになる。そうなってしまえば、もうだいじょうぶ。できることばっかりやっていると退屈になってくる。チャレンジしたくなる。
そうなると子どもたちは主体的に判断し、行動する機会が増えてくる。「今日は、簡単なのをやりたい。家では、むずかしいのをやるから、今日だけは息抜きさせて」なんて言う子もいれば、「むずかしいのをやるから、量は半分にして…」と交渉を始める子もいる。もちろん、私がなにも言わなくても「宿題を増やすわ。今週はチャレンジしてみるから」なんて、さっさと自分で決めている子もいる。
そんな子どもたちがさらに学力を高めるためには、ほんとうに一人ひとりの固有のやり方に対応しなければならない。目の前の子どもたちが、なにを求めているのか、それを達成するためにはなにが障害となっているのかをいっしょに見ながら。「存在を消そう」と思ってはじめた学習塾だったけど、この10年でやりとり(コミュニケーション)が基本なんだということを学んできたようだ。子どもたちのようすを見ながらやり方を提案していく。そこから、やりとりが生まれ、それがどう能動的な学習に結びついていくのか。
10年をかけて、やっと目の前の子どもたちが見えてきたような気がする。
次回は、もう少しこの10年を掘り下げたいと思います。
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