今日の卒業式で1年間のPTA役員活動も終わった。最後に卒業式での謝辞をどうするかということで役員の間で意見が食い違い、後味の悪い終わり方をしたが、長い目で見るしかないと思う。 しかし、今日の式で私が一人で謝辞を言うことが決定したのは、数日前。それは予想できた帰結なのだけど、ぎりぎりにならないと本腰が入らない「土壇場のNAGI」というわけで、原稿を書いたのは2日前。 しかも、従来型の「謝辞」では自分のことばとして言えないという、やっかいな私。できあがった謝辞は、謝辞と言えない代物になってしまった。息子に読んでもらったら
「やっぱ変なやつの親は変だよな。でも、形式的な、中味のないことばを言ってほしくないから、これでいい」と言いながら、チェックをしてくれた。
息子が指摘したのは、私たち仲間内では共通語のようになっている「自分育て」とか「学び」とか「愛」などということばと、子どもたちを「分類」したと勘違いされかねない表現。直してみると「臭み」が消えて自然なメッセージになっていた。
でも、実際スピーチするとき、会場の反応はどうだろうか。
式が進むにつれ、校長の式辞も、在校生の「送ることば」も、卒業生代表のことばも、私が中学生のころから変わらない定番。「うわー、こんなんじゃ、私の謝辞は浮きまくり、ひんしゅく物かも」 しかも予定とは違って、退場しているはずの来賓まで臨席することになっている。ペンを出して、式の最中に書き直しを始めた。でも、直せば直すほどおっかしーい! ああ、もうやめた!
謝辞の番になった。泣けると嫌だからという気持ちもあって早口になってしまった。自分のことばが伝わらないのではないかという、臆した気持ちもそこにはあったと思う。でも、そのうち、前列の茶髪の男子生徒が私のことをじっと見ているのに気がついた。「聞いてくれている」と分かった。落ち着いてきて、ゆっくりめになった。そうすると感情が湧きあがってきて、最後は原稿になかった言葉も入れて、子どもに対するメッセージで締めくくった。はずかしながら読んでください。
これだけは忘れないでください。あなた方は、存在しているだけで価値がある。あなた方が自分の道を切り開いていくとき、私たち大人は、必ずしも「理想の大人像」を示せないかもしれないけれど、あなた方のことを何よりも大切に思っていることは真実です。この先どんなことがあっても、いつまでも、私たちは、あなた方のことを、見守っています。
ちょっとくさかったかな? へへっ。席に戻ると、私と関係がこじれた役員さんが私の後ろの席で、繰り返し「こんな感動せん式はないわ。スピーチ聞いても泣く気にもならん。あんたら、何泣いてんの。しょうもない」と、まわりの親に言うのが聞こえた。「やっぱ、浮いとったかな」と、いかな私もちょっと落ち込んだ。
ところが会場を出ると、名前も知らない人が「ありがとう。途中で私の心の叫びを代わりに言ってもらっている気がしたわ」とか「今日のスピーチの中で謝辞が一番心に響いたわ」と口々に言って来られた。来賓として出席されていたIさんも「名木田さんのお話が終わると、子どもたちの中からまず拍手が出た。それまで、仲間である卒業生や在校生のスピーチのときはあくびをしたり、私語したりしていた子どもたちの中から、言われもしないのに自然に拍手が湧き起こったんよ。子どものからだはリアルに反応していた。私も涙が出た」と感想を聞かせてくれた。
もちろん、従来どおりの謝辞の方がよかったという人もいるだろう。私も誉められたいわけではない。ただ、あまりに雰囲気を壊す内容だったら気まずいなと思っていたので、とりあえず安心した。
帰って息子に聞くと「早口なのがいけなかったけど、泣かなかったのはよかった。(私は涙もろいので、泣かれるとブザマだと心配していたらしい)まわりで、ものすごく拍手しているのが聞こえた。友達がちゃんと聞いとった」との返事。さらに息子は、「おれ、卒業生のことばは、耳に入らんかった。昨日、何回も読み方や歩き方を練習させられていたのを知ってるし。代表の子にどうやって文章書いたん?って聞いたら、先生が「流れ」を作って、その中を埋めていって、敬語とか言い回しとか全部直された、と言っていた。自分のことばじゃないよな」と続けて、最後に「オカアのは、ほんまの気持ちが入っとった」 と一言。やれやれ。本当のところ、息子に伝わればそれでいい。
何でも「式」らしくという規制のもとで、代表生徒のスピーチはリアルな自分のことばではなかったし、動きもロボットのようだった。私はぎりぎり謝辞の枠を守りながらも、自分の本音を言う、という姿勢を息子に示したかったのだ。何より、この「謝辞」、息子との共同作業だった。
(講座の仲間にもお世話になりました)
思い出してみると、PTAの役員、しかも、部長を引き受けたのは、誰のためでもない、息子のためだった。2年生のとき、自分の内側で起きる「思春期の嵐」と、クラスを吹き荒れる嵐とで、息子は苦しみ、怒って、投げやりになっていた。他人を責める気持ちから、自分を見つめる心を弱めていた。私にできることは、彼の根っこを支えるやさしい大地たること、そして、もう一つ、本気でやりぬく姿勢を見せること。
「オカアは、他の親とはちょっと違う。気迫のことだよ。おれのオカアはやると決めたら、どんなになってもやる奴じゃ」
イエイエ。子どものためなら母親は誰だってこわいもんなし、本気になれるんよ。
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