1.自分の中で問いつづける by NAGI
質疑応答のとき、私は「息子に私の思いを伝えられない。ことばが伝わらない。ことばについて竹内さんのお話を聞きたい」という投げかけをしました。
それは、私が聞きたいというのもありましたが、それまでの質問が「大勢の前で話すとき、あがらないようにするには?」とか、「しもやけに苦しんでいるのだが」というように経緯していったので、主催者としてこの辺で流れを「コミュニケーション」の方へもっていきたいと思ったからです。
それに対して、竹内さんは次のように返してくださいました。
それは"言葉は伝わるもんだ"というふうに思い込んでいる前提があるわけです。
私はあべこべなんです。"言葉は伝わらないもんだ"と。だから、何とか伝わった時には、わ〜すごく幸せだというふうに思います。相手の人は息子さんであるから、ある年齢まではあなたやあなたの旦那さんが使っている言葉の中で育っている。だからそういう言葉のやり取りの範囲で反応している。だから自分の言葉が伝わっているというふうに思うかもしれないけども、子どもさんが成長してきて、自分なりの言葉を見つけ出した時には、これはあなたの世界の人ではないわけですよ。
一人の人というのは全く自分とは違う人なんであって、その全然違う人と自分が繋がるって事は簡単な事ではない。だけども伝わるのが当然だと思い込んでいれば、思い込んでいるほどそういう気持になるわけですよね、僕に言わせると。
どっから触れていったらば何かが繋がることになれるのだろうかという、一番最初のステップを、あなたもういっぺんおっかさんとして捜してごらんなさい。いま息子さんから、息子さんはいま無自覚ですけど、そういうことを言われているんだという風にとりあえず私は返事をしておきたい。そんなに簡単にわかるはずないですよ。
わかんないのが当たり前、という言い方はきついですか?
主催者としてこざかしくも意図的に質問したなんて言えなくて、私は深く考えもせずつじつま合わせのことばを連ねました。
そして、竹内さんの鋭い指摘に、最後は沈黙せざるを得なくなったわけです。
竹内さんのことばがこころに響きました。次の日、レッスンのとき、質問を重ねました。
自分が余計な主催者根性で、深く煮詰めてもいない、質問にもならない問いを発してしまったこと。ことば、コミュニケーションというところを聞きたくてこの講演会を企画したのに、一番ことばを粗略に扱っている自分が剥き出しになったこと。さらに、自分の思いとズレタことばを出してしまう、いつものパタンが出たこと。
ちょうど、講演会参加者から
>「ミーティングなどで、自分の意見や感想を言う機会があるとき、自分のいいたいことを話すのだけれども『自分の本当にいいたいこと(気持ち、思い)』と『発したことば(ことばとして出てきたもの)』とにギャップを感じることがあります。”今そのとき”に気持ちにぴたっと即したことばを表現できるようになりたいのですが、そのために必要なことは何ですか」
という、質問ファックスが届いていたので、これは、私の思いと同じだと思って、その文面を読み上げました。
竹内さんは「そういうことはみんなあること」とおっしゃってから次のような内容のことを言われました。
そういうときのやりとりは「日常語」とは次元が違うものであることが多い。だから、深いところで問いかけ、問い詰める、その作業の中でぴったりくることばを探し続ける。かんたんに納得なんかしないで問い続ける。自分が何を表現しようとしているのか煮詰める努力を続ける。そのこたえは、10年後、20年後にくるかもしれない。あきらめないで、自分の思考を続けていくことです。
講演、そして、レッスンの合間にしてくださったお話は、今でもはっきりとからだに残っています。この感じは参加したものでないと分からないかもしれません。簡単に伝わるものでもないかもしれません。
それでも、参加者それぞれの感想を読んでいただけたらと思います。
2.答えはことばにはない by MASAMITSU
「演劇では、人の問いに答えを与えちゃだめ。そこで止まってしまうから。問いに答えがみつかったら新たな問いをみつけること。それが哲学的な問いになっていく。問いが与えられると反射的に答えようとする。5年後10年後に答えがみつかることもある」と語る竹内さんは、親子のコミュニケーションに関する質問に
「気持ちをわかってもらったらそれでいいんですか?自分が納得したらそれでいいんですか?」と新たな問いを提示していた。
夫婦だって、親子だって「気持ちをわかってほしい」「自分が納得したい」それだけのことに苦心惨憺していると思っていた私。ガビーンと後頭部を殴られたようなショック。
さらに
「変わるってなんだろう?」
「表現するってなんだろう?」
と問いかける姿に感動してしまった。
と同時に人生どこまでいってもめんどうくさいもんだとも思ったのだけれど・・・。
講演会の司会を担当した私は、竹内さんに、打ち合わせの席で事前に送った質問やスケジュールについてどう感じたか聞いてみた。
「ことばは伝わらないもの」と言い切る竹内さんは、そんな表面的な話はよしましょう、と言いたげだった。ふだん、表面的な話から本質的な話に向かう切り口を探すという手段をとっている私には、切り口がみつからない。でも、雑談をしている竹内さんの笑顔がすてきだった。
こんな爺さん(?)になりたいと思った。
根源的な問いをもちつづけた竹内さんは、答えをみつけようと努力するよりやさしい笑顔の奥にすでに答えを生きているっていう迫力を感じたのだった。
そう、答えはことばじゃなくて、生きるものなのね。
3.気持ちよかったレッスン by M.T
初めて竹内さんから直接、指導していただける機会に恵まれて本当に幸運でした。受けるまえに漠然と感じていた不安(集団の中で浮く事や竹内さんの言われる事が理解できるだろうか、難しい事はよくわからないし、など)が私の勘違いだと言う事が、講演会を聞きレッスンを受けて分かりました。竹内さんのお話もレッスンも私の中にストーンと入ってきました。
分かるとか分からないとか、皆の中で浮くとかそんなことどうでも良い事でした。私がどう感じるか、どう思うかその事が大切なことです。
この二日間の感想は楽しかった、気持ち良かった、です。色々言葉にできない、しなくて良い、体で感じる気持ち良さです。体を研ぎ澄ませて感じる事の楽しさとか気持ち良さはなんともいえない、今まで知らなかった感覚です。漠然とした不安があった事や二日間、家を空ける事で感じる家族への負い目から食事会に欠席した事、後で後悔しました。
また竹内レッスンを受ける機会があったら良いなあと思っています。
4.「問い」に向き合い、「問い」を返す by T.K
私は、今のこの感じをどういうふうに表現すれば相手に伝わるのか、そんなことを「言葉」に託してきたのですが、だんだんとわかってきたことは、「言葉は伝わらないもの」ということでした。
そう書いてしまうと絶望的ですが、「わかってもらおうと思って言った言葉 を相手がどう受け取るかは予想できない」ということを、家族の中で、ミーティングの場で、教室でのやりとりで、何度も感じてしまったのです。だから、言葉を発するときは、「わかってもらおう」とするのではなく、自分に問いかけ、そのときの自分にぴったりの言葉、そのときの自分が腑に落ちた言葉をとりあえず発し、それをどう受け取るかは相手次第、というスタンスで関わるしかない、ということが見えてきました。
それ以前に自分の言いたいこととぴったりの言葉がみつからない、言ってしまったあとで「本当に言いたかったことはそうではなかったのに・・・」というジレンマもあります。そんなことを竹内レッスンの合間に質問する人がいて、竹内さんは次のように話されました。
私もそうですし、それは当然のことだと思いますよ。それはまっすぐに問題に向かい合う体になっているからそう感じるのでしょうね。
今の言葉は私の言いたかった言葉とちょっと違うんじゃないか、と感じる自分をまず意識する。そして「さっきの話ですけど、本当はもっとこういうことが言いたかったので・・・・」とちゃんと話すことが大切です。皆がそれをやったほうがいい。3年たってからでもいい。自分の言いたかったことはこれなんだ、とはっきりした時、そのことをどうするかが大事なんです。
あの人とあの人には伝えよう、ということでもいいし、とにかくそのことを人と共有する場を作ったほうがいい。そして、覚悟を決めて、自分の思想をつなげていって、進めていってほしい。そしてすぐに言葉にしてしまうのではなく、自分の中に言葉を見つける、自分で自分に問いかけ、言葉を見つけてからしゃべる、ということをしていきたいものです。
人に何かを伝えようとしてしゃべるときに、私は矢継ぎ早に言葉を発し過ぎているようです。そのときの自分にぴったりの言葉が見つかるまでは話さない、ということを、沈黙を恐れず、もっとやってみてもいいのかもしれません。
わかったつもりにならず、「問う」ことで、相手にとっても言いたいことが見えてくるし、自分自身も「本当は何が聞きたいのか」が突き詰められて、深まっていくのだと思います。それは、答えが出ることを目的にすることではないようです。「問い」に向き合い、「問い」を返す、そしてある瞬間に「あ、そうか」と感じ、その瞬間にまた別の問いがふつふつと沸いてくる、それを繰り返しているうちに何かが深まっていく、そんなことを丁寧にやっていきたい、と切実に感じました。
また、竹内さんのレッスンでは、「からだ」は「ことば」以上に語っていることを感じました。相手と話すときの体の位置やちょっとした向き、体の固さ、体の乗り出し方や表情など、注意深く意識してみると、「ことば」以上に正直であったりするのですね。
それから、人の手って本当にあたたかくて気持ちいい。頭で考えては決して感じることのできない「気持ちいい」「わくわく」「うっとり」・・・を、もっと「からだ」にプレゼントしてあげてもいいのではないか、と思いました。その前に、まずはどんなことに自分が気持ちよく、わくわく、うっとりするかを知ることが先ですね。
このときのワークでは、私は人の手のあたたかさにうっとりしてしまいました。そんな時、「言葉はいらない」と感じました。
5.竹内さんのはなしに引き込まれた by T.S
竹内レッスンの中で印象に残った話のひとつ。
アフリカの原住民にヨーロッパ人が「あなた達の神は誰 ? 何処にいるの ?」と質問をした。
原住民は昇り行く朝日を指して「あれだ !!」と答える。 白人達は納得し、お昼を迎える。そして頭を照らす太陽を指差して「あなた達の神様は、今真上だね」と言った。ところが、原住民は「あれは神ではない」と言ったそうな。白人達にはその答えは理解出来なかった。
白人にとっては、太陽は「同じ物体」、朝の昇り行く太陽も、真昼の太陽も同じ物体だ。しかし、原住民にとっては、昇り行く朝日こそが「神」なのだ。
もう一つのエピソード。アフリカでヒヒの大群がいつも賑やかで「キッキ、キッキ」と騒いでいる山がある。ある朝、昇り行く朝日に見とれ真赤に輝く朝日を見ていた人が、「はっ」と背後の気配に気付く―賑やかなヒヒたちが、全山すべてのヒヒたちが、静かに朝日を見ていたのだ。
太陽が昇るときの神々しい時間を、ヒヒも感じ取っている。
私は随分と前にヒマラヤ山脈の朝日を見たことがある。真っ暗な暗闇の中で、山脈の陰がより暗く映っていて、 ゆっくりと朝日が昇り出す。 真っ暗だった山脈に、朝日のぼやけたシルエットが浮かび そして、朝日がほんの少し覗いたと同時にヒマラヤ山脈に赤い線が走る。それと同時に山々は真赤に、深紅に染まり始める。
朝日がおおよそ半分程度昇った頃から山々の裾野から真っ白の白銀が写し出され、赤く染まった山脈がいつのまにか白銀山脈えと変わって行く。時間にして約10分程度なのだが。
このとき、自然と両手を合わせたし、神々が宿る山脈だと、現地の人達が思っている気持ちが分かった。
6.「おーい雲よ」 by T.S
>講演会で話がうまくできるようになったのは、この2-3年のことだ
このことを聞いてほんとうにびっくりしました。
彼のお話は、とてもうまくて、あたまにどんどん入ってくるし、おもしろいし。ずっと昔からこうなのかと思っていたら、ごく最近のことだというのです。
1925年生まれですよ。76歳。じゃあ、うまく話せ出したのは、73歳くらいということになります
もう自分は年だから変われないと思っている方、おられませんか。私は、このお話を聞いて、変わるか変わらないかは、とりあえず、歳には関係ないんだと思いました。歳に関係なく、変わることができる、成長することができる。実際、私と同年代の司会者は、「それじゃあ、わたしの前途は洋洋ですね」ということを言われました。
「おーい雲よ」のレッスン。 参加者のうち5人が雲の役をします。
会場をかたづけて、片方の端で、雲になってふらふら漂うのです。ひとりが、こどもの役をして、会場の反対側の端から、雲に「おーい雲よ」と呼びかけるのです。ただ呼びかけるのではなく、雲がこっちに来たくなるような呼びかけをするのです。
これが、なかなかむつかしい。子供役の呼びかけが「用事があるから呼ぶ」「命令で呼ぶ」ような感じの声についなってしまって、呼ばれる雲としては、とても、行く気になれないのです。「雲に来てもらって一緒にあそぶような気持ち」で呼ばないと、雲は来る気になれない。そのためには、まず自分がうきうきしないといけないのです。
これを、仕事に結び付けて考えますと、こうなります。
社員、従業員にどんどん、生産性のある仕事をしてもらうためには、「こども役のいっしょに遊ぼうよ、なにかいいことしようよ」という気持ちで呼びかけるといいのではないか。もちろん、仕事ですから、雲とは違って、強制でも命令でも、社員は動きますが、結果としての仕事が違ってくるのではないかと思います。
また、この困難な時代、会社の全員でがんばっていかないといけないと思うのですが、みんなの力をあわせるためにも、「いっしょになにかいいことしようよ」というつもりでの、「呼びかけ」がたいせつだと思ったのでした。
7.みんなの声が変わるのがわかった! by M.O
>察して欲しい・・は他人に対して通用しない。
竹内さんのこの言葉がずっと体に残っています。解ってもらうためには、察してほしい"私"と戦わなくてはならないのか、そんな気がしています。
インタビュアーとして前にいたので、竹内さんがちょっと声の出し方を指導しただけで、寄せ集め集団とは思えないほど、パワーのある、どーんとぶつかってくるような声に変わったのがわかった。合唱部に少しいて、発声練習にすごく時間を使い、声が出なくて悩んだ事のある私には、鳥肌が立つような経験だった。合唱部時代の緊張しっぱなしの経験とは違う、暖かい気持ちになれた。
8.「じか」にふれるということ by F.U
竹内敏晴さんの書かれた『癒える力』を読んで以来、相手に「じか」にふれるということが気になっている。
竹内さんによれば、「看護という仕事は、相手に近づきじかに相手にふれる仕事」だという。精神科の病院で准看護士として働いている私は、果たして患者さんと「じか」にふれているのだろうか。患者さんの生活管理をするのではなく、対等な立場で共に生活する一人間として接したいと「あたま」では思っているが、「からだ」はどう対応しているのだろうか。
そんな思いを抱えながら、竹内さんの講演会、「からだ」と「ことば」のレッスンに参加した。
講演会では、自分の思いを質問する機会を与えていただき、できる限りすなおに表現した。竹内さんは「ことば」より「身振り」の大切さを話され、実際に「相手を招く」レッスンをやっていただいた。相手にどう接するかということの以前に、自分の「からだ」が相手に「近づこう」としていないことに気づかされた。
講演会終了後のレッスンにおいても、私の「からだ」と「こえ」は相手に「じか」にふれたという実感はなかった。ただ、「じか」にふれることを畏れている自分が存在していることを感じることができた。
竹内さんは『癒える力』のなかで、田中正造が谷中村に入り、9年間農民と生活したことを例に挙げ、「ひとりの人が他の人と、真に『じか』にふれることができるためには、どれほどの誠実と、身を澄ます身構えと、そして愚直さが、そして年月が、要ることだろうか」と述べている。
私もまきび病院に就職してもうすぐ9年目を迎える。
そろそろ、「障害者解放」、「精神病院解体」などの「あたま」で患者さんとつきあうことをやめ、一生活者として「からだ」でつきあうことを始めようと感じている。
相手に「じか」にふれることができる「からだ」、そのためには何が必要なのか、いや、何を捨てなれければならないのか、一つ一つ吟味していきたい。
|