「自由」がいいわけではなかった。
教育にたずさわったことのなかった私が学習塾をはじめて11年がたちました。はじめる前は学校で習ってきたことだから私でも何とかなるだろうと軽く考えていたのですが、早々にそれは甘い考えだったことに気がつきます。
オープンの日、ドタバタの中、「これ持って帰るからね」と好きなところを宿題に持って帰ろうとしている中学生がいました(家庭で学習できるようになることが一つの目的なので毎日の宿題を持って帰ります)。「ちょっと待って。それはまだ早すぎるから、こっちの小学生のところからやろう」と言うのですが、「いいから。いいから」とそのまま帰ってしまいました。
「なにを学ぶかを学習者本人が決める」と言っても、私と相談なく子どもたちが勝手に教材を持ち帰ったのでは、なにができてなにができていないのかのデータをとることができません。それに一人で決めると、できないことはやろうとしないので、力がつきにくいのです。
「学習者が主体」と「自由にする」ということは違うのだということを学びました。
癒しを押し付けていた。
しばらくして教室が落ち着いてくると今度は、「がんばっている子ども」の姿が目に付くようになりました。教材は順調に進んでいくのですが、「そんなにがんばっているとつぶれてしまうぞ」という気がしていました。今から思うと、過去のがんばっていた自分を癒したかったのです。その気持ちを子どもたちに反映していたのでした。
しかし、そのことは「この塾はやらなくてもいいんだ」と子どもたちに伝わっていることがわかってきました。だけど、子どもたちはできなくてもいいとは思っているはずはありません。「がんばる」とか「がんばらない」とかは、本人が決めればいいことで、私が口を出すことではなかったのです。
そのことから私の思いを押し付けてはいけないということを学びました。そもそも押し付けているということ自体がわかりにくいことなのですが…。
先入観なしで聞く。
みらいななさんは、しばしば「フレディはシャイだから、最初は倉庫に隠れていた。いつもそう。隠れていてあとから出てくる。それから、最初は失敗して後から幸せになる。つい最近もミュージカル化の話が進んでいたんだけど、スポンサーが見つからなくて、『中止』とみんなに電話した夜に、なんと2000万円を出してくれるスポンサーが見つかってできることになったんです。」と話していた。
子どもの自由を保障することと子どもたちの言いなりになることとは違うこと、「がんばらなくてもいいじゃない」は「やらなくてもいい」につながってしまうことはわかりました。「それではなにをやればいいんだろう」と思ったとき、「子どもたちはできるようになりたいと思っている」ということを前提にすることにしました。本来、学ぶことは喜びです。これは疑いようがありません。
「学ぶためには、がんばっても、がんばらなくても、どちらでもいいんじゃないか」と思うようになりました。
そう思うと、「めんどうくさい」、「やりたくない」が、ただの発散する声に聞こえてきました。「楽しい」、「おもしろい」という声も同様です。つまり、楽しいと思ってはじめたことは、やがて、つまらなくなり、それでもつづけていると、また、おもしろくなってくるということです。そうやって、人生に奥行きができてくるんだろうと思います。
「子どもたちができるようになりたい」と思っているということは、私にとっては、できるようになる方向に提案すればいいということですから、私が「たいへんだろうなあ」とか「がんばりすぎないでいいよ」とか余計なことを考えないほうがいいということです。「たいへんだからどうするか」とか「ここまではがんばる」などということは学ぶ人本人が決めるべきことでした。そうすると、私のやるべきことは、「いやなことはいや」と言える関係をつくることに変わっていきました。子どもたちがどう感じていて、どうしたいのかを聞くことに徹することにしたのです。
そうすると、「これはやりたいくないから、こっちをやる」とか「今までのやり方は簡単すぎるから、こういうやり方でやる」などと、はっきり表現する子どもが増えてきました。同情されるより、「たいへんだけどこれをやる」と納得できるやり方を選ぶほうがだんぜんよかったのです。
このことから、「起こっている問題は、だれが解決するべきことかをはっきりさせる」「先入観なしで聞く」ということを学びました。
できないことを責めない。
こんなことを通して、私も学びに来る人たちもお互いに楽になっていったように思います。今でも問題は起き続けていますが、問題が起きるのがあたりまえとやっと思えてきました。はじめは、問題が起きるのは「自分のやり方が悪いから」「○○が悪いから」と責任を問い、その対象を責めていました。問題が悪いのではなく、問題は学ぶ素材であり(だから問題というのだろう)、その居心地の悪さゆえに行動を変えられるきっかけなのだと思うようになってきました。
はじめは、子どもたちも「先生が悪い」「教材が悪い」「家がやかましい」「学校が忙しい」などと、ぶつぶつ言い訳をします。なかには腹立ちまぎれに机を叩いたり、プリントを破ったりする子もいます。そこで、できなかったことを責めずにいると、言い訳が減っていきます。そうやって、問題が起きるのはあたりまえで、「なんとかしたいよー」という気持ちを受け入れ、それをどうしていくかに頭を使うことを学んでいっているのだと思います。
そうやって、子どもたちは学びのペースをつかんでいきます。もしかすると、子どものペースは、大人の期待通りではないかもしれません。なかには「よくそんなにできるなあ」というペースもあれば、「それだけでいいの?」と思うものもあります。あくまでも本人のペースです。私は、それがいいと思っています。
|