ゴールデンウイーク、九州の某島で森歩きに挑んできました。家族連れなので無難なコースを選んだつもりでしたが、本格的な雨模様(翌日は大雨洪水警報だった)のため、かなりの難行になりました。その中で感じたことをいくつか書きます。(黄金週間に旅へ出るのがほとんど初めてなもんで…。個人的な旅日記になっていることをお許しください)
初めての挑戦にしては相当タフなコースを選んでしまったのでしょう。大人の足で2時間半の設定時間となっていましたが、昼食時間込みで結局3時間半くらいかかりました。雨に濡れた急勾配の木道、登山道を縦横無尽に横切るスギの根っこ、岡山辺りではまず目にすることのないふかふかのコケが生えた岩…。ちょっと油断すれば転倒、怪我につながりそうな状態で、娘(8歳)はかなり怖かったようです。休憩所にたどりつくまで入山者に一組しか会わなかったことが、引率する私たちの不安も相当あおってくれました。しかし、彼女は最後まで歩き通すことができたのです。
後で「なぜだろうか」と考えました。どうも、大人の目で見るとびびってしまうような急坂であっても、子どもは目線の高さが低く、前方を見渡すことができないため、目前だけを見続けて歩いていたような気がするのです。私は中学2年の大山登山で既に高所恐怖症が発症し、それ以降、山歩きからリタイアして久しいのですが、彼女程度の年齢なら恐怖感もまだ少ないのかもしれません。決して脚力が強くなく、家でも「ソファで寝転がって読書するのが至福」という末恐ろしい娘ですが、決して途中でへたり込んだりしませんでした。
いったん山の中に分け入ると、「もう後戻りはできない」という状況が理解できていたのかもしれません。後に「少しは怖かったけど、引き返すこともできないしね」と彼女が言ったように、子どもでも不退転の状況に追い込まれると、思わぬ力を発揮するものだと感心しました。と同時に、圧倒的な自然の中では、人間は余計なことを考えず、ひたすら目標に向かって進み続けるように「設計」されているのでは、とも思った次第です。
一方、某体操教室で鍛えられてきた少々多動系の息子(9歳)は、底知れぬ体力、未知への好奇心、そして無謀さが幸いし、超初心者の4人パーティの先頭で、ひたすら先導役を務め続けました。途中、一度だけコースアウトする場面がありましたが、逆にいい薬となり、その後も役目を立派に務め上げたのです。決して自然に感動するようなタイプではありませんが、1000年の時を経てたたずむ巨木にほんのちょっとだけ、心が動いていたようです。
お気づきの方がおられるかもしれませんが、旅の舞台はいわずと知れた屋久島です。私は、世界自然遺産だから「完全天然」が売り物だろうと勝手に思っていたのですが、そうではありませんでした。人間がいったん切り倒したものの、何らかの事情で放置されたスギを、やがてコケが覆い尽くし、そこに命を宿した新たなスギが長い時を経て、巨大かつ摩訶不思議な造形物となっていたりするのです。
まさに「森は生きている」です。そこにあるのは、人と自然の共存などといったほんわかした生易しいものではなく、人間の所業すべてを飲み込んでしまうような、自然の凄味でした。ある方が「樹齢7000年の縄文杉の圧倒的な存在感を前にして、その後の人生の方向が変わった」と話してくれたことがありますが、この森の植生には、本当にそうした力が宿っていると思いました。
無事に森歩きを終え、びしょ濡れになったシャツを乾かすこともできない状態で、下山のバスを待っていました。すると、待合所の壁に一枚の張り紙を発見したのです。「昭和44年以降、いまだ14人の入山者が戻ってきておりません…」。やはりなめてはいけないんだな、と感じ入ると同時に、「よく最後まで歩き通したものだ」と、子どもたちをたたえました。ついでに、一番「びびり」で高所恐怖症の自分も褒めておいたことは、言うまでもありません。
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