恒例となった毎年1月4日、5日の2日間の竹内レッスン.今年も20人あまりの人が受けました.
レッスン初日はまず「からだほぐし」(竹内さんはこのことばは使っておられませんが)を念入りにします.ペアを組んで,寝転んだ相手のからだを揺らしていきます.こうやって肩肘張ったからだが本来のやわらかさを取り戻していきます.
2日目の開始時には,参加したみなさん一人一人に簡単な自己紹介をしていただきました.この場での出会いを大切にしたいと思っていることと,そこで出てきた参加者の「ことば」に竹内さんがどう反応してくださるのか,その収穫を求めてのことでもあります.竹内さんが語られることばは,からだにすうっと入ってきます.「本物」を感じるからでしょう.
2日目の大半を使ってていねいに行われた「呼びかけのレッスン」では自分というものをまざまざと見せつけられました.それは逃げ出したいと思えるときもありますが,からだは「必要」を感じて向かっていきます.
レッスンのことを文章で伝えるのはむずかしいのですが,自分が感じたこの感じをどうにか表現したいと思っています.何人かの参加者からの感想を紹介します.
澤根 みどり
去年に続いて2回目の竹内敏晴さんのレッスン。1回目とは違うものが残る。
今回、特に印象に残っているのは3つ。
一つ目。自分の感じること、感じていることを意識しよう。いい感じか、いやな感じか。いい感じならよりくっつく。いやなら逃げる。体で反応すればいい。「これは気持ちいいみたいだ」なんていうのは感じているんじゃなくて判断してることだ、という竹内さんの言葉を聞いて笑ってしまった。でも、私自身もそういうことを結構いろんな場面でしている。
二つ目。コミュニケーションということを簡単に考えすぎているのではないか?コミュニケーションって何か?相手の考えていることを知る。それから相手の感情を知る。さらには相手が世界をどんな風にみているのかを知る。そこまで考えると、本当にそんなことができるのだろうか、という問いかけが竹内さんからあった。自分を捨てないと相手の目で世界を見ることはできない。まずいったん、自分を捨ててみること。(もちろん、その後で自分に戻ってくる。)
通常、自分がしていることを考えた。相手のことを考えている時でも、自分を捨ててはいない。自分の子供とのことにも思いがいった。娘たちが13歳と10歳になり、私と彼女たちとの関係がかわってきている。私が親として、大人としてふるまう必要が減ってきた。彼女たちを、子供としてというより私に近しい相手として接する場面が増えている、と思う。でも、親というか生きていることのより長い者として「こういうものだよ」「こういう風にしておいた方がいい」「ここはこうしなさい」と伝えないといけない場合もある。(自分の 勝手な思い込みや自分の価値の押し付けになってる場合もあるが)
この両方をどう使い分けるか、バランスをとるのか、なんともなしに考えていたのでこのコミュニケーションのことがとても気になった。伝えようとする時でも、自分をいったん捨てて伝わることもあるんだろう、と思う。
三つ目。人を呼ぶ、ということで、「ちょっと来て」という時に用事で呼んでいるのか、人間関係で呼んでいるのか、という話があった。普通の生活の中や仕事の場面では用事で呼ぶ、用事が呼んでいるということがほとんどだと思う。呼ぶということ以外で人に話をすることでも、用事,用件で話をしていて人間関係で話していない。普段はそれでいいし、そうなるだろうけれど、それだけになってしまったらいけない。ふだんは用事・用件で話しているのだ、ということを時々は意識したい。人間関係での呼びかけ、話もしていく。そうじゃないとつまらないような気がする。
呼びかけのレッスンというものもした。私は呼びかける方も呼びかけられる方も体験した。「(こっちへ)来て」と「あっち 行って」という声をかけて、声をかけられた人は自分が呼ばれた、動きたいと思ったら動く。動こう、という気にならなかったら、そのまま座っている、というレッスン。私が呼びかける時、「来て」という時に呼びかけられた人がすんなり動かない(つまり、来てもらえない)。「あっち 行って」という時の方がすっと動く。竹内さんが「自分はどっちの傾向があるか、知っていればいいんです」と言った。その通りこの結果をあれこれ考えないで、ただ覚えておこう、と思う。
「あっち 行って」をした後に竹内さんが「行って という時には焦点が相手に合って姿がしっかり見えるのだから、その時にその人に手をのばして(実際に直接は触れないけれど)「来て」と招きよせればいい。やってごらん」と言われた。「あっち 言って」と言うつもりになって相手に手をのばしてそれから手を引き寄せながら「来て」と言ってみたら、たしかに本当にその人の手ごたえを感じて、相手の人もうなずきながら立ち上がってくれた。不思議な感覚。そしてそうか、こうすれば来てくれるんだ、というほっとするような感じ。この感覚はしっかり覚えていようと思う。
Y.M
レッスンを始めて体験しての感想
・毎日を真剣に生きている人が多い。
・からだほぐしでは、からだがやわらかくなった。気持ちよかったと思った。
・私は人にからだをあずけるのは抵抗はないが、また緊張もしていないつもりだが、脱力しすぎて相手の人に負担をかけて悪かったと思う。
・呼びかけのレッスンはと〜てもむずかしい! 相手に対する恥ずかしさやうまくできない苛立ちなどで、自分としてはしたくない。
藤田 照子
竹内さんが言われた、「コミュニケーションはみんなが言うほど簡単なものではない。もっとゴツゴツしたものだ。生きてきた歴史も環境も違う人間が「わかる」などということはないんだ。自分を無にして相手の言う事を聴き、表情もまるごと感じ取ってわかろうとすること。そして、後で自分という人間を戻してきて、相手に対して自分の考えを伝えるということ。分かり合うことは、そんなにうまくいくものではない」。また、「文章とは,単なる要約や使い古された言葉を並べたものではない。それに触れたとき、触発され,心が揺り動かされる。それが文章というものだ」。
この二つのことが心に残りました。書こうとしゃべろうとことばというものは、そういうものなのだと感じました。私自身が触発されるときは、どんなときだろう・・・と考えてみて、自分自身のからだを通した体験から生まれることばを大切にしてみようと考えました。レッスンの後から「おたよりが少し変わったね」と言われています。
成人式を迎えた娘に、「お母さん私にはちゃんと伝えたいことを最後まできちんと言いなさいって言うくせに、お母さん、言えてないよ。今の言い方」と厳しくチェックされ、自分自身のことはなかなか自分ではわかりにくいものなんだと改めて自覚させられました。気づいても気づいても、染み付いた癖はなかなか変わってくれません。気づいては日常生活でレッスンし、それを繰り返すことで、少しずつ少しずつ変わっていけるのかもしれません。以前と変わってきていることにも気づきつつ、どんなふうになれるか、楽しみでもあります。
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