30 えと・おーるつうしん30号 [2003.09.05] ■べてるの集いと対談…
■ちょっと変わった夏休み
■ふぞろい野菜村便り
■口先徒然草16
■旅物語 らくだに乗って
■この青い空の下で…
■ハロー,パーティ!-3-


ハロー,パーティ!-3-
 ドリーミング・トゥモロウ  Dreaming Tomorrow  by NAGI
        ―明日に向かって生きるために―

  8月23日から3日間,第43回社会教育研究全国集会が岡山市の就実大学を会場にして開かれました.
 私は,分科会のひとつ,「障害をもつ人の生涯にわたる学習保障;障害を持っても地域でいきいき生きる」で実行委員をしていました.なぜかというと,友人が代表世話役をしている,車椅子ダンスのサークルトム(吐夢)とドリーミングトゥモロウとが発表することになっていたからです.
 特に,ドリーミングトゥモロウについては,昨年,とらいあんぐるとえと・おーる共催で開いた講演会「子どもが子どもとして生きるために」(山本清洋鹿児島大学教授)での出演以来,大勢の前で発表することが子ども達の成長に少しでも役に立てばと思い,発表の機会を探していました.
 ですからはじめは「発表させてもらう」ということで,私は実行委員を引き受けていたのです.しかし,当日の子ども達の発表は,参加した人にとって,すばらしい贈り物でした.閉会式のときの代表挨拶でも「障害を持った子ども達のミニコンサートがすばらしく」と特に触れられ,また他の実行委員の方々からも「評判が私たちのところにも伝わってきたよ」と声をかけられました・・・.


 「たこたこあがれ,たこたこあがれ・・・」子ども達が次々に歌っていく.その声は力強かったり,か細かったり,大きかったり,小さかったり・・・ でも,どの声も,どの子の声も,聞いている私のからだに次々に入ってきた.そのたびに私の心はいいようのない感情に突き動かされた.
 これはいったい何なんだろう―.スタッフとして,写真を撮りながら,動きながら,でも耳と目は子ども達に集中していた.無理に,ではない.からだがひきつけられるのだ.
 それは会場にいた参加者にも通ずる感覚だったのだろう.子ども達の最後の歌と演奏では思いがけなく,会場から先に手拍子が起こった.終わってから,最前列にいた実行委員のSさんを見ると,涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた.

 こどもたちの声には人を揺さぶる力があったのだ.「ことばとからだのレッスン」の竹内敏晴さんが言われていることを思い出した.――ことばには2つある.情報伝達のための道具としてのことばと,情動を伝える,からだから発せられることば.ドリーミングトゥモロウの子ども達の声は,まさに後者だった・・・.
 今の社会は,情報伝達の言葉があふれているが,本当に人のこころに届くことば(声)があるかというと,どうだろうか.自らも聴覚障害者だった竹内さんは「からだから発せられることば」を求める.情報伝達のことばは,頭は動かしても人の心や体は動かせないのだ・・・.
 子ども達は,昨年の山本清洋講演会「子どもが子どもとして生きるために」のときより,声もよく出るようになり,ちょっぴり大人っぽくもなっていた.この子たちも,この子たちのペースで確実に成長しているのだ.その成長を見守る温かいご家庭と,指導者の熱意を感じた.
 指導者の一人,荒金さんは,全国集会の要旨集に次のように書かれていた.

 10年くらい前,ドリーミングトゥモロウのスタッフが主宰するピアノ教室および体操教室に何人かの知的障害児が通っていたことが,彼らとの最初の出会いです.当時,健常児と一緒にレッスンをするなかで,もちろん彼らのハンディの内容にあわせて,多少メニューを変えてレッスンをしていたわけですが,最終的には健常児と同じことができるようになるため,あるいは少しでも健常児に近づくためのレッスンをしていることに疑問を持つ場面がたくさんありました.その中でも一番大きな疑問だったことは,彼らの年齢が上がるにつれて失われていく快活さ,自信のない姿でした.昔に比べて様々な障害を持つ人たちに対する支援も増え,多様な生き方が認められるようになった一方で,過酷な競争社会は見えにくい形で,複雑にエスカレートしていっているように思います.そんななかで,知的障害児(者)は,自らの気持ちをなかなか外に向けて伝えることができません.ドリーミングトゥモロウの活動を積み重ねることで,その部分が少しでも切り開かれ,将来,それぞれにあった社会参加ができるようになればと思っています.

 「この子達の今あるがままを輝かせよう」――ドリーミングトゥモロウの子ども達と歩み始めた4人の先生方の思いが,伝わってくる・・・.子ども達をそっと後押しする彼女たちにあるのは「指導者」の構えではなく,子ども達とともに喜び,子ども達とともに成長する「共育者」としての姿勢だ.その細かい配慮――音響器材の手配から,会場に置く風船の色,配置に至るまで気を配り,当日も早くから来て会場の黒板をピンクの布でおおっていた.
 子ども達の,外へ向かっての表現を少しでも引き出したい,という熱い思いが感じられた.そして,そんな先生方にとっての一番の贈り物は,子ども達の輝く「今」,そして「未来」.
 本当の意味で豊かな世の中は,この子達が生き生きと生きられる世の中だ.
 ドリーミングトゥモロウ――明日に向かっておおきくなあれ!


*   *   *


―NAGIの不思議日記から

 昨年7月,ホームページに載せたものです.私にとっては忘れられない思い出のひとつ――ドリーミングトゥモロウの紹介に添えます.

 20日の講演会「子どもが子どもとして生きるために」で、知的障害を持った小中学生の音楽グループ Dreaming Tomorrow が、演奏とパーカッションを披露する。臨時スタッフの私たちもパーカッションに参加するので、今週、合同練習をした。
 私は、ちょっとぎこちない。どう接したらいいのかわからないのだ。でも、だんだんと打ち解けてきて、最後は「『ぞうさん』のリズムをするなぎちゃんでーっす!」なんてノリノリになっていった。
 
練習が終わって部屋の外に出ると、子どもたちのお母さん方が向こうのいすに座って待っておられた。私たち「臨時スタッフ」の存在をどう感じておられるのだろうか,不快感を与えてはいないだろうか・・・。

 その日家に帰って「ひろくん」のことを思った。
 ひろくんは、次女が保育園のときいっしょだった子だ。
 初めてひろくんと会った日、彼は園の門から玄関までをはうように登園していた。歩行やことばに障害があって、頭部を保護するためにヘルメットをつけていた。
 最初は母子登園だった。次の年には送迎だけになっていたが、ひろくんのお母さんはいつも心配そうな顔で彼のことを見ていた。そして、私たちほかの母親とほとんど交わることがなかった。伏目がちに歩いていて、あんまりかまって欲しくないようにも見えた。私たちもどう話し掛けていいのか分からなかった。
 それでも、そのうち、ひろくんはどうにか手をつかずに歩けるようになっていった。私たちの目にもゆっくりだけど、「成長」しているのが見て取れた。

 年長組になって劇の発表会の季節になった。その保育園はかなり本格的な劇をさせる。大道具小道具も子どもたちが担当する。だから、練習に十分な期間を当てていた。練習が始まってすぐの保護者会のとき、今までほとんど発言したことのなかった、ひろくんのお母さんが口を開いた。

 「うちの子は生後まもなくかかった病気で、脳の半分近くを切除しました。お医者さんから、感覚や知能をつかさどる部分を切除したので、この子は一生目も見えず、耳も聞こえず、しゃべれず、知能も低いままで生きることになります、と言われました。ショックで、退院してずっと家の中で、人目に触れないように育ててきました。でもそのうち眼が見えているんじゃないか、耳も聞こえているんじゃないかと気がつくようになりました。残った脳の一部が、なくなった脳の部分まで一生懸命働いているんじゃないかと思いました。意を決して普通の保育園に入れることにしました。切除した脳の上には頭蓋骨をのっけているだけです。衝撃にはとても弱いのです。だから、たくさんの子どもたちがひしめいている場に連れて出ることは、危険でもあるのです。とても心配でした。でも、息子は少しずつ動いたり、ことばらしいものを発したりし始めました。やはり同年齢の子供たちから受ける刺激が必要なのですね。でも、今回の劇には、息子を出して欲しくない。大勢の親御さんたちの目の前に姿をさらして、劇をしたり、進行の手伝いをしたり、そんなこと! だいたい、せりふが言えません。身体も半身麻痺で、道具を運んだりできません」

 私たちにとっては初めて聞くことで、お母さんの長く深い悲しみのときを思って、ことばもなかった。そのとき保育園の先生が「非情なようだけど、ひろくんにはみんなと同じようにしてもらいます。劇はみんなで作り上げていくことになっています。それに役や仕事を免除すると、子どもたちが『ひろくんだけずるい』と言って承知しません。子どもたちにとっては、ひろくんも同じなのです」と言い切った。ひろくんのお母さんは納得したのかどうか。私たちも何も言えなかった。
 その日から毎日毎日子どもたちは練習を続けた。心の中で,ひろくんにとっていい結果になりますようにと祈った.

 劇の発表の日。年少組の劇の道具運びに、ひろくんが他の子どもたちと出てくる。斜めに傾いた体で机を持つ。片手はほとんど動かない。他の子どもたちも自分のことで精一杯。ひろくんを助けてくれる人はいない。自分の仕事は、自分でやらなければならないのだ。
 ひろくんは、麻痺した片手を支点に、机をぐっと持ち上げた。
 そして最後に、年長組の劇「森は生きている」。ひろくんの役は8月の神様。せりふは確か「8月の太陽がさんさんと照らすよ」だったと思う。
皆が固唾を飲んで見守る中、ひろくんは、誰にも聞き取れることばで、大きく、言った―

「ハチガツノ,タイヨウガ,サンサント,テラスヨ」

 劇の発表会から卒園までの間に、ひろくんは発芽したばかりの若芽のように、急激に成長していった。話すことが楽しくてたまらないふうで、送迎のときに「ひろくん」と呼びかけると、なんやかんやとおしゃべりしてくれるようになった。
 最初は難色を示されていた地域の小学校への入学も、最後の面接ではOKが出た。「目も見えず、耳も聞こえず、一生この状態で」という医師の診断は一体なんだったんだろう。おそらくは切り取られた脳の周囲でシナプスがどんどんつながっていって代償機能を持つようになったのだろう。生命の、底知れない神秘と、天の恩寵を思った。
 Dreaming Tomorrow の子どもたちの紹介は,歌で始まる。
 「手をつないで こんにちは みんなに会えて よかった 手をつないで こんにちは あいさつしよう」
 私も思い切り歌いながら思う。ひろくん、あなたに会えてよかった。でも、その気持ちを伝えないままだったね。

 次女が小学校入学して1年くらい経ったある日、私は、保育園児の息子と公園の砂場で山を作っていた。しばらくすると男の子が「手伝おうか」と言ってきた。見上げると、ひろくんだった。息子と一緒に砂を高く高く積み上げ固め、トンネルや川を掘っていった。気がつくと夕日が沈みかけていた。あたりを見ると、離れたところに、ひろくんのお父さんが立っていた。ずっとそこで見ていたらしい。お父さんは保育園にはあまりみえられなかったので、私がかつて同じクラスだった子どもの母親だとは気づかなかったようだ。
 「さあ、もう帰ろうか」とお父さんはひろくんに言った。もっと遊びたい、と言うのを、静かに言い聞かせ、私たちの方に向いて「遊んでくれてありがとう」とていねいにお辞儀をされた。
 一瞬、胸をつかれた。
 振り返り振り返りしながら帰っていくひろくん父子に、息子と「バイバイ」をしながら、思った。遊んでもらったのは息子の方なのに、一緒に楽しんだのに。
 あのとき私はどう言っていいのかことばがなかった。「遊んでくれてありがとう」―この言葉に、うかつに触れることもできない、悲しい響きを感じたからだ。ただ、心のなかでことばを返した.「一緒に遊んで楽しかったね。こちらこそ遊んでくれてありがと

 それから数年後。
 小学校での懇談会を終えて川べりの小道を歩いて帰っていると、数メートル先を母子づれが歩いていた。やはり懇談帰りだろう、なんだかケンカをしているらしい。お母さんが、並んで歩いている、自分と同じくらいの背の息子を、怒って小突いている。息子の方も大きな声で反論している。
 あれっ? ひろくんじゃないかな。からだはまだ少し傾いて揺れてはいるけれど、後姿は前よりずいぶんしっかりしてきた。けんかをしている本人たちにとっては、それどころではないだろうけど、私はなんだか、うれしかった。
 いつも下を向いて悲しそうに心配そうに、壊れ物をさわるように息子を見ていたお母さんが、大声張り上げて息子を叱っている。息子も負けずに応酬している。もうひろくんは「かわいそうなひろくん」じゃなくなったんだ。

 そして,小学校の卒業式の日.
 卒業生全員が名前を呼ばれ、返事をして、壇上にあがり、校長から卒業証書をもらう。次々に子どもたちがあがり、わが子も無事すみ、もう終わりかなというとき、ひろくんの名前が呼ばれた。ひときわ大きい「はい」という返事。そして、すらっと伸びた背、ほとんど揺れない足取り。片手で証書を受け取り、降りていく横顔は、まっすぐ前を向いていた。
 「お医者さんから、この子は一生目も見えず、耳も聞こえず、知能も発達せずに生きることになります、と言われたのです」悲痛な声がよみがえり、遠のいていった。
 のどの奥が熱くなった。――ひろくん、卒業おめでとう。

 ひろくん母子を具体的に援助したわけでもない.ドリーミングトゥモロウの先生方のように熱い思いでかかわったわけでもない.
 ただ,こころの奥で応援しただけの傍観者にすぎない私。
 でも,ひろくん、ありがとう、あなたに会えて、よかった。



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