30 えと・おーるつうしん30号 [2003.09.05] ■べてるの集いと対談…
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■ハロー,パーティ!-3-


旅物語らくだに乗ってprocess24
 誰だって学びたいと思っている   by M.Y(創育舎)

学ぶ力がつくコツ3か条

 3年ぶりに創育舎のパンフレットができました。創育舎というのは、幼児から大人までが完全個別学習のスタイル(“らくだ”)で学んでいる学習塾です。

 デザインをお願いしているKさんは、打ち合わせで私と常包さんとで話してきたことを「学ぶ力がつくコツ3か条」としてまとめてくれていました。

その3か条とは
 「学びたいと思う気持ち」
 「自分で決める」
 「寄り添う」

でした。

やる気のない人はない

Kさんは、「『だれだって学びたいと思っている』という前提でかかわる」という話を聞いて、「こんなあたりまえのことをどうして忘れているんだろう、押し付けられたらやる気がなくなるのがあたりまえだったのに。当たり前のことを思い出させてくれる“らくだ”だから価値がある」と思ったそうです。

「学びたいと思う気持ちはだれにでもある」という前提で子どもたちにかかわるのと、「勉強なんてしたいわけがない」と思ってかかわるのとでは大違いです。

 教室に入っても「今日はやる気ない」といつまでも勉強を始めようとしない人もいます。初めのうちは「やる気ないのなら今日はやらなくてもいいじゃない」と思っていたのですが、ようすをみていると、どうも「やった方がいい」と思っている場合が多いようなのです。「やらなくてもいいが」なんて言うと「でも、やらんといけん」なんて言います。でも、「じゃあ、やれば」と言うと「やりたくない」となるのです。
 そんな話を聞くと「どっちなんだよ」と言いたくなっていたのですが、「学びたいと思う気持ちはだれにでもある」、あるいは、「どの子もできるようになりたいと思っている」という前提があると、私の言うことがかわってきました。

 「やる気がないんだ。じゃあ、やる気がないままやってみようか。今日は、これでいい?」と話を受けとめつつ、葛藤に入り込まないようになったのです。そして、目の前に教材を差し出すと、「うん」か「いやだ」と答えが返ってきます。「いやだ」なら、量を減らしたり、簡単な教材に変えたり別の提案をします。

ただになっても満足できない

 先日、大阪にあるホテルの人事部のHさんのお話を聞く機会がありました。
 Hさんは、「従業員に権限を与えて、トラブルが起こっても自分で判断できるようにしているんです。それで、迅速に対処できるようになりました。ただ、オープン当初は、トラブルが起きると、『御代は要りません』と、ただにするのがはやりまして、そのときに考えたのが『お客様はただになることで満足されるのだろうか』ということでした。お金を払ってサービスを受けにくるのだから、ただになったからといって満足できるわけがありません。だから、トラブルが起きたら、ほかの商品に変えるとか、満足に変わる対処方法を考えるようになりました」という話をされていました。

 同じように学習塾に来るということは、学びたいから来るのだと思っています。 一日二日ならともかく、ずっと「なにもしなくていいから得した」と心底思う人はいないでしょう。
 「学びたいと思う気持ちはだれにでもある」と思ってかかわると、かすかなやる気でも見えてきます。「やりたくない」と言っても、「やり方がわからない」とか「むずかしいからとりかかりにくい」という場合が多いのです。そんなときは、わかるように説明したり、簡単なところをやれば、がらっと変わって晴れ晴れとした顔で帰っていくことも少なくありません。

 そんなふうに「学びたいと思う気持ちはだれにでもある」という実感はあったのですが、Kさんの話を聞いて、「自分で決める」にも「寄り添う」にも前提があったのだということに気がつきました。

だれだって自分のことは自分で決められる

 “らくだ”の学習では、「教材を自分で決める」、「やり方を自分で決める」のが基本です。
 たとえ幼児であっても自分で学ぶものを決められるという前提でかかわっていると、実際にプリントを選ぶとき、私が「これくらいがいいだろう」と思っているものより、その子が選んだものの方がぴったりだったという場面に数多く出くわします。

「決めたことはできない」が前提

 また、「毎日1枚ずつやる」とか「7時にやる」などというやり方も自分で決めるのですが、この場合の前提は「決めたことはできない」です。「毎日ごはんを食べる」なんてあたりまえにできることではなくて、「早起きしてジ?ョギングする」のような「やればできるんだけど、実際はなかなかむずかしい」といったことを決めます。決めるときには、「むずかしいこと・できそうにないこと」をやろうと思ってもひとりではできないので、私との約束という形をとります。
 このときの重要な前提が「約束は守れない」です。もともとむずかしいことを約束しているのだから、簡単に守れるはずがありません。

 約束は守れないという前提でかかわっていると、子どもたちができなくても責める気にはなりません。かえって、できるようになる約束・やってみたいと身を乗り出す約束ってどんなものかと、工夫することが楽しみになったりします。

一人では続かないという前提

 もう一つの「寄り添う」なのですが、Kさんは「やりつづけることができないから、寄り添ってくれる人が必要だと気がついた」そうです。私も同感です。

 どんないい教材でも一人でやり遂げることは至難の業です。教材が家で眠っているなんて経験をした人は多いのではないでしょうか。
 「やればいい」とわかっていても、ついつい「めんどうだからあとでやろう」、「今やっていることが終わったらやろう」、「明日こそ」と思っているうちに「とうとうできなかった」ということはありがちだと思います。
 だからこそ、「寄り添ってくれる人」や「見守ってくれる人」、ときには、「励ましてくれる人」が必要になってきます。

 寄り添うときの前提はなんでしょうか。私の経験から言えば、「簡単にできること」と「むずかしいこと」は続けるのがたいへんです。
 これは“らくだ”をやっていて思ったのですが、分数に入ったとき、最初はすでに知っていることなので、大人の私にとっては簡単なことなのです。やればすぐにできることです。ところが実際は、丸々1週間できませんでした。いつでもできると思うと、なかなかはじめられなかったりします。
 そこで、分数の足し算を暗算でやることにしました。そんなことはやったことがありませんから、かなりハードルが高くなります。ミスが増えます。ストレスもかかります。でも、暗算の方がだんぜん学習はつづけられるのです。人間っておもしろいものです。単にラクをしたいばかりではないようです。
 かといって、むずかしかったらできるというものでもありません。むずかしすぎたら手をつけられなくなります。問題を小さくする必要があります。

 簡単すぎてもつづかない、むずかしすぎてもつづかない、めんどうなことはできない。ならどうするか。一人でやらないことです。私も“らくだ”をつづけるために“らく・らく・らくだ”という教室に通っています。

 先日、ギターを習うのに「一人ではできないから、いっしょにやろう」という話が創育舎でありました。そのとき、前からやりたかったウクレレをはじめてみようかと思ったのですが、さてどうなることやら。



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