8月半ば、1週間の夏休みをもらった。子どもが生まれてから初めての長期休暇だ。目的は長野県への4泊5日の旅行。メーンイベントは黒姫高原であった某団体主催の全国ファミリーキャンプ(2泊3日、約500人参加)だった。
この団体を一言で説明すると、「英語による身体表現的コミュニケーションを楽しむサークルの全国組織」というところか。約2年前から妻と2人の子どもがかかわっており、わが家では時折、マザーグースや十五少年漂流記といった物語が、英語のナレーションでCDプレーヤーから聞こえてくる。そして語りや音楽に合わせて、息子と娘はなにやら怪しげな英語をのたまっている。
こんな前説をすると、休みを使ってなんともハードな合宿に参加した「奇特な一家」というイメージが漂うが、そんな大層なものではない。雨が降ったせいもあるが、宿泊するロッジで30人ばかりが大人も子どもも輪になって、簡単な英語の歌を歌ったり、初対面の奥様たちとうれしそうに(?)手をつないでゲームをしたり、なんともたわいないレクリエーション活動だった。
印象に残っているのが、2日目のキャンプファイアーでの発表に向け、鳥の扮装をつくる活動。親子が思い思いの紙工作でキツツキやコマドリ、ハト、ミミズクなど、森の鳥や動物たちを表現する。
我々夫婦はキツツキになりきり、娘はよその家族の中に入り込み、リスの工作に没頭している。そのうち異変に気づく。息子の手が止まっているのだ。つくりかけのコマドリのお面の切り抜きに失敗し、「もう画用紙がない」とかんしゃくを起こしている。1学期のクラス参観日で、目にしたのと同じ光景だ。「手を出すべきか、否か」。迷ったが、終了時間が迫っていたこともあり、つい手伝い、仕上げてしまった。
その夜、キャンプファイアーでの発表は「一瞬」だった。かけ声に合わせ、それぞれの鳥の鳴き声を英語も交えて発する。以上。たった10秒ほどの発表のために、親は必死で子どもそっちのけで扮装をつくり、かんしゃくを起こす息子にかんしゃくを起こしていたのか。そう思うと、なんだか笑えてきた。「なぜ、もう少しおおらかになれないのだろう」と。
その日の夜は父母交流会。要は、親による親のための飲み会だ。実に150人の大人が、日中感じた我が子へのいらいらを忘れるため(?)に、飲みまくっている。「なぜ子どもにこの活動をさせているのか?」「どうして父親もキャンプに参加したのか?」。そんな話をしていると、酔っぱらいながらもいろいろなことを考えさせられた。
日々、一緒に生活していても見えないことが見えてきた、キャンプという場。友達をつくっての単独行動が目立った息子、高校生のリーダーを独占しようとする娘。それぞれの行動に、家では分からない「特徴」を見た。ちなみに息子は帰宅後、「将来どんなことをしたいか」という話をした時、「いろいろな国の人と友達になりたい」と口にしていた。今回のキャンプとの因果関係は疑問符がつくが、彼なりに、人と人とのかかわりの中で暮らすことの楽しさを見い出していたのだろうか。
正直言って、ごく当たり前のことを、もっともらしく書いた気がする。おおかたの父親はこのくらいのことは気づいているはずだし、実践しているだろう。ただ、長年仕事で家族をほったらかしにしてきた私には、こういった小さな発見すら新鮮に思えてしまうのである。
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