今年の春は山菜を随分食べました。蕗のとう・ツクシ・ウド・セリ・・・それぞれの山菜の独特のほろ苦さをこんなに美味しいと思ったことは今だかつてありません。
2月初旬、庭の片隅でフキノトウを見つけて春の近いことを感じ、早速天ぷらに。これが我が家の山菜料理春一番でした。
3月にはツクシが顔を出し、収穫の少ない最初の頃はこれも天ぷらに。篭一杯も摘めるようになると卵とじにしていただきました。ウドは酢の物や天ぷらだけでなく、キンピラ・佃煮・サラダにと料理のレパートリーが増えました。
4月はタケノコ。掘りたてを皮付きのままオーブンで焼くと苦味もうまみも閉じ込めて、自然の恵みの凝縮した美味しさでした。フキノトウのあと芽を出しどんどん成長していくフキはキャラブキにしたあとの葉っぱまで使い切って、佃煮にしました。
あれこれと春の恵みを味わいながら、山菜がこんなに美味しいと感じられる年になってしまったのだと、しみじみと年を感じたのですが、でもそれは神秘に満ちた自然の恵みだったことに気付かされたのです。若い人はエネルギーに満ちていて、自然からの恵みなしでも充分元気でいられるのでしょう。ところが人生も後半に差し掛かると無意識のうちに自然からエネルギーを補給しようとする、いわば天然のサプリメントが山野草だったのです。
冬のあいだ大地に根を張りミネラルをたっぷり蓄えて、春、勢いよく伸びる植物にはエネルギーが詰まっています。そして、それを必要とする年齢になるととても美味しく感じられるようになるのではないかと。
いままでは私の周辺にあるのが当たり前でなんの意味も感じなかったものたちが、実はかけがえもなく有難い大地からの贈り物だったのです。
こんな気持になったのは、一年ほど前、宮迫千鶴さんの「家と庭」という詩を読んだ時の衝撃があまりにも強烈だったからです。数年前ホリスティク岡山主催の講演会で、「魔女の思考に目覚めた時―自然のそばで暮らして」と題して講演して下さった宮迫さんは、以来私に心地よい刺激を与え続けてくれます。しかしこの詩は心地よいなんてものではありませんでした。ちょっと長いですが紹介しましょう。
家 と 庭
「家庭」というのは
「家」と「庭」からできていると知ったとき
わたしの魂が歌いはじめた
家というのはキッチンやリビング
寝室やお風呂 そしてトイレ
生きていくために大切なものばかり
庭というのは植物や動物と出会う場所
何かを植えて育てることや
ともに暮らしながら何かを教わること
家は土のうえに
庭は土とともに
空は土のうえに
雨は土とともに
さわやかな朝の歓びのような
おいしいランチのような
楽しい午後の散歩のような
わたしが消えていく夕焼けのような
想い出を味わうワインのような
清潔なベッドのような
そんな絵に憧れてアトリエの窓を開ける
私は家庭を忘れていました。私達夫婦には家庭がなかったことをこの詩は気付かせてくれたのです。彼女の魂は歌いはじめたというのですが、私の魂は泣きはじめてました。
「家庭」というのは、「家」と「庭」からできているというこんな当たり前のことをどうして彼女に言われるまで気付かなかったのだろう。
夫は単身生活が長く、官舎で暮す様子を時々見に行くことはあっても、仮の宿舎は私にとって落ち着かない場所でした。夫にだって居心地のいい場所であるはずがありません。
2年前、娘の教育費がいらなくなると、そんな暮しにさっさと別れを告げて自主退職し、家に帰ってきました。一緒に暮せることを喜んではみたものの、夫が毎日私の帰りを待っているという新しい生活のリズムに馴染めず少々戸惑っていた頃でした。
夫は「家庭」を求めていたのです。
今、夫は1000坪の庭を持ち、毎日植物や動物と出会っています。
様々なものを植えて育て、自然から多くのことを学んでいます。
我が家にも少しずつ「家庭」が整い始めたようです。
収穫の喜びで溢れた私のキッチンはとても忙しくなりました。
そして、いままで当たり前と思っていたものすべてに、心から感謝しています。
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