ちょっとしたミスから・・・
私は考現学(「あの映画どうだった?」と聞かれて話すときのようにふと感じたことを書きとめたもの)を週二回メールで発信しているのですが、先日間違えて校正前のものをみなさんに送ってしまったことがありました。それは、次のように私の書いたものでした。
ある方から「最近の考現学を読んでいると、らくだの指導者ばかりが集まって合宿をやったり、いつも同じ人の名前が出てきたりで内輪だけで活動しているのかなと感じてきた。平井雷太さんの言っているセルフラーニングは、大人の学びにも使えると思うのだけれど、もっと外に向かって出て行かないともったいないんじゃない? 私は世間話をしにいくだけでもいいと思ってるけど・・・」とアドバイスをいただきました。
そのメールを夕方、送信したにもかかわらず「本日中に返信お願いします」と書いていたことで、8名の方が「感じたこと」を送ってくださいました。
内輪受けでいいの?
B山さんは次のように書かれていました。
私は、セルフラーニングの考え方がとてもいいな!って思っています。しかし、「学び」を仲間たちで深めていったり、試行錯誤したりシェアしていけばいくほど、テーマがテーマだけに非常にマニアックな世界に入り込み、会を重ねるごとに、ある意味「内輪の専門用語(?)」が飛び交い、非常に細かい言葉のやりとりが始まって、変な?ところでお互いに受けてしまって楽しんでしまうことになるかもしれません。
この前はらくだ教材を使った塾の主宰者が集まったところで、これは通じるだろうと思って話していたら、「わからない。一部の人だけで話がすすんでいる」という声があがったばかりでした。そのことから何でも言ってもいい場所はないんだ、内輪ってないんだと思ったばかりだったので、らくだの指導者の集まりといっても違いと出会っているとしか思えませんでした。ですから、B山さんのように書いてもらえることはありがたいことです。
この原稿にも「考現学」だの「問い」だのといったマニアックな専門用語(?)を使っていますが、いつも「どこまで使うか」、「どんなふうにしたら読んでもらえるか」は私の課題になっています。
以前から「内輪」にひっかかっていたというC本さんは次のように書かれていました。
なぁなぁになってしまうと、「この場はこうだから」「今までこうやってきたんだから」みたいになってしまってかえって今さら切り出しにくかったり、聞きにくいことって出て来ると思うんです。
ただ「内輪」も別に悪いわけではなく、安心して話せる場と思っているのでそれはそれでもいいかな〜、という気もしています。特に私は、初対面の人には思いっきり人見知りしてしまうし、どんな人かもわからないで、私自身のことをさらけ出してしまうことに対してむちゃくちゃ抵抗があります。
それに教室の雰囲気なんかから言うと初めての人が訪ねて来て、以前からいた人達が親しげに盛り上がっていたりして疎外感を感じたりすると、これは最悪・・・って感じですが、人によっては、それが「この塾は、こんなフレンドリーな雰囲気なんだ」と受け取る人もいるかも知れません。
また、メールマガジンを発行しているD川さんは、次のように書いてくれました。
因みに、私のメルマガは結構限定していまして発信4年目を迎えますが、一応は全員の顔を知っていて、相手も私を知っている人達です。これならまずメールについて無法者によるメール攻撃もなく、守秘義務も大丈夫なので、正に「内輪話し」ですね。
「内輪」が悪いわけじゃなく、その場に慣れていない人のことを忘れてはいけないということでしょうか。
ひっかかりは情報のもと
B山さんは「情報発信」についても書かれています。
ズバリ!一番思ったのは、考現学などでの言葉のやりとりを見ていて、あまりに細かい感想のやりとりをしていて、こんなナーバスな?感受性をもっていたらなかなか、外へ向けての情報発信って難しいだろうなあ!なんて思ってしまった。人間は傷つきたくないですから、感受性が高まってくると、たぶん外への発信を恐れるようになってしまいます。逆に、自分の内に内に向かっていくようになるかもしれません。これだと、他人から傷つけられることはありませんから
う〜ん、内に内に向かっていくのが好きな私には考えさせられる言葉です。
また、E田さんは次のようにコメントしてくれました。
どこにでも「内輪」はある。特定の人とでも新しい情報は生まれ続けるけれど、それでは世界は広がらないのかもしれない。もっともっと多くの違いを知ることで、より自分の細やかな部分まで問い掛けることができるだろう。それは厳しいことではなく、むしろ、10通りより100通り知るほうが楽に生きられる気がしてくる。
輪があるかぎり、内と外ができることはまぬがれない。だから、一部の人にしか通用しない表現や盛り上がりに気を付けなければということでしょう。
私は、20代の後半から内へ向かっていくのが好きになりました。そして、一人でやっていてはコミュニケーションが磨かれないと感じ、講座や考現学で人とかかわることの多い"らくだ"に関心が向かったのです。そこでは、それまで縁のなかった人権、女性、教育などの問題に向き合い市民活動をしている人や幅広いネットワークで活動している人など、違いと出合ってきた8年間でした。
自分とは違う考え方もあるんだと知ることで、E田さんの言うように楽に生きられる感じがします。違いに出会うと、「なぜ、そう考えるんだろう?」とひっかかりが生まれるのですが、「どこにひっかかったのだろう?」と書いているうちに、それもありかと思うこともしばしばでした。
私は、自分をふりかえるとか内に向かうことはたいせつだと思っています。内に向かいながら人と出会っていくことに魅力を感じています。これを編集していることで、そのことがはっきりしてきました。考現学を書くことは、人とつながることと内に向かうことの両方ができる道具の一つだと思っています。
情報の蓄積で動き出す
また、次のようなことを書いてくださった方もいらっしゃいます。以前、お子さんがらくだ教材で学んでいた方です。
友達が、「らくだや講演会の事など、もっとみんなに知って欲しい。きいて欲しいもったいない」って言った。確かにもたいないよねー。気楽にそういう話ができる居場所もいいかも・・・私も月に1度ぐらいお茶会しようかなー。
また、お子さんが現在学習中の方は「『もっといろんな人に知ってもらえたらいいな。こんなにおもしろいもの、もったいないかも』と思っている、ということに気がつきました」
と書いてくださいました。
お二人の言葉から勇気をもらった私でしたが、学びが蓄積されると、動きにつながっていくのかと思いました。蓄積された情報はじっとはしていられないもののようです。
こうして勝手に編集させもらったことは、たまたま送信ミスをしたことで生まれた情報ですが、書いたものを発信することで、ほかの人の視点を知ることができたということでもあります。ご協力ありがとうございました。
これからアドバイスにのって、人に会いにいこうと思っています。そこから、どんな情報が生まれたかは、またの機会に。
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