18 えと・おーるつうしん18号 [2001.9.15] ■シュタイナー教育と私
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■ふぞろい野菜村便り
■口先徒然草3
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■長男の椎間板ヘルニア
■不思議日記-2-


中島博江さんの「シュタイナー教育と私」

8月26日、ドイツのシュタイナー教員養成課程を修了して、一時帰国された中島博江さんをお迎えして講演会を開きました。3時間の長い会でしたが、中島さんは、エネルギッシュに語ってくださいました。お話のなかの一部を紹介します。

●人智学とは

シュタイナー教育の根底には人智学があります。
人智学では、人間は、身体、魂、精神(霊)の三つの部分から構成されていると考えます。個々の人間の内部にある「精神(霊)」は永遠であり、繰り返し地上の「身体」の中に生まれかわり、幾度もの地上での生を通して次第に成熟していきます。
つまり、今私たちが生きているのは、円の一部(孤の部分)で、肉体が死んだあとも「精神」は円周上を別な世界で生きつづけ、また更なる課題を持ってこの地上の別な肉体の中に宿ってくる、というわけです。輪廻転生とか、カルマ論とかですね。

●人生には7年という節目がある

シュタイナーは、私たちがこの世に生まれてから死ぬ(あの世の生でいうとスタートですが)までを7年という発達の単位で見ていて、最初の7年×3(0歳から21歳)、次の7年×3(21歳から42歳)、最後の7年×3(42歳から63歳)というように分けています(今はもっと長生きをするようになってきていますので63歳以後もあるでしょうが)。

最初の21年間を私たちは「天使」に守られて過ごすそうです。7歳までにその人の基本が作られ、次に7歳から14歳でこころが育ち、14歳から21歳で知的な部分が成長します。人は21歳で自我を確立し、それまでその人についていた「天使」はいったん離れます。そして、そこから42歳までの21年間(7年×3)は、自分の意思や力で人生を切り開いていきます。ところが42歳になって人生の最終章に入るころ、「天使」が再び舞い戻ってくるそうです。

これはどういうことかというと、人生のスタートで獲得したもの(感情や傾向)が戻ってくるということです。実際、がむしゃらに働いて富や名声を追いかけてきた人が、ふと自分の人生はこれでいいのだろうかと立ち止まるのが、このころだそうです。「天使」が、自分の人生の本当の意味はなんだったんだろうかと思い出させてくれるのだそうです。しかし、このときその声を聞こうとしない人もいます。そういう人も次の49歳、56歳、という節目にはきっと気づくような出来事が周辺に起こってくるということです。

そうしてみると、人生の各時期がどういう意味をもっているのかわかりますから、人生をその場その場で見るのではなく大きな時の流れの中で見ていけるような気がします。また子供の教育において、特に「発達に応じた」ということを重要視するわけです。特に、21歳の「自立」の時までの教育のあり方は、日本のそれとは異なっています。

●始まりの7年は人としての基礎作り

たとえば、日本では幼児から字を教えたり、計算を教えたりしますが、シュタイナー学校ではそれは、その年齢での成長をむしろ阻害するものだと考えます。どんなにいい栄養でも芽生えたばかりの双葉の状態で与えると枯らせてしまいますよね。ふさわしいときに、ふさわしいものを、ふさわしい形で導入することに心が砕かれます。

最初の7年でまず体がある程度育ってから、心が育ちます。次に、心といっても意志とか感情とか知性とかあるわけですが、これも一緒に育つのではなくて、最初に意志が育って、次に感情が発達して、最後に知性が備わります。意志や感情が育っていないうちに、いきなり知性を開発してしまうことは危険です。いったん知性が育った後では、意志や感情はなかなか育ちにくいのです。

そのため、7歳以前にはむりに字は教えてはいけないし、仮装現実感だけのテレビやビデオやパソコンなんかは見せないのです。テレビが与えるものは、それがたとえどんなにすばらしい番組であっても「死んだ情報」にすぎず、「生きた体験」ではありません。どんなにすばらしいステレオ装置の音も「生」ではありません。直接体験をほとんど持たない幼い子どもにこれらを与えることは、発達に悪影響を与えると考えるからです。

●日本の教育の現場で

私は名古屋で10数年間小学校教員をしてきました。熱心な教師だったと思います。毎日クラス通信を発信し、体験学習も取り入れていました。子供の心と体と智恵を育てていくために、親と教師は協力して子供たちを育んでいかねばならないと思って一生懸命でした。


でも、日本の教育の、1年ごとに担任もクラスの構成員もかわるというシステムは、親と教師がともにクラスの中で起こってくる問題に取り組んでいくことをむずかしくしています。取り組もうと思ってもすぐに1年が経ち、担任も子供たちも入れ替わるのですから。そこでは、問題が起こっても、親は、あと数ヶ月の辛抱で先生が、あるいは問題の子が代わるから、と、目をつむります。
教師自身、毎年毎年、積み重ねるどころか、同じことの繰り返し。積み上げたと思ったらまた一から出直しです。

●我が子の不登校から次のステップへ

私も疲労と虚しさにさいなまれるようになってきました。そんなころ、長女が不登校になりました。幼いころ仕事にかまけて係わり合いが足りなかったのでいいチャンスかもしれないと思い、私も仕事をやめて、1年間親子で思い切り遊びました。

ブラジルの農村でも半年暮らしました。そこには、圧倒的な「自然」がありました。雷というと空全体が光り,とどろき、世界の終わりかと思えるほどです。雨が降るというと空のおおいが破れたかと思うようなすごい雨でした。そして、貧しいけれど、現地の子供たちの目は生き生きとしていました。

そんな経験をしたあと、長女は一応日本の中学に入学しました。しかし、半年経つとまた行かなくなりました。心が窮屈だというのです。ちょうどそのころドイツのシュタイナー学校の紹介ビデオを見ました。長女は「この学校に行く。この学校じゃなきゃだめだ」


私もシュタイナーの人智学に救いを見出していました。教員としてこんなに一生懸命、理想を抱いて努力しても何にもならなかったかもしれないという焦燥感も、シュタイナーの輪廻転生論からいえば、無駄ではないということになります。

今の人生で一生懸命取り組んだことは、今この体では達成できなくても、また次の生に引き継いでいけるというのですから。ならば、この生で精一杯がんばってみよう、そうエネルギーが湧いてきて、ドイツ語もわからないのに親子でドイツにわたることに決めました。42歳のことでした。

●実際にドイツに行ってみて

しかし、こうやって、生き生きと豊かに学べる学校を求めてドイツに行ったのに、すぐに長女は不満を抱くようになりました。「シュタイナー教育はビデオで見たような、そんな理想の学校じゃない! シュタイナー学校にも競争はあるし、いやな先生はいる!」と。でも、当たり前のことですよね。自分に都合のいい、完全な学校があるはずはない。教師も人間だし、ドイツの子供たちも親たちも、抱えている問題は、日本と何一つ変わらないのですから。

長女はここで「結局は自分なのだ」ということを学びました。

●シュタイナー学校には「理想」がある

長女が言ったように、シュタイナー学校だったら何も問題はなく、いい教育が受けられるのかといえば、そうではありません。シュタイナー学校にも問題はあります。しかし、そこでの教育には「理想」がある、「希望」があります。

先ほども言いましたが、シュタイナーの哲学には、精神はこの生で終わりではなく、心の姿をまっとうするまで限りなく成長していくという信念があります。これがなければ、人はとめどない焦燥感に襲われます。シュタイナー学校の教師にも不出来な人はいますが、みなシュタイナーの根本の理想を理解し、子供たちの成長を我が身に引き受けて進んでいます。

私は、シュタイナーを勉強すればするほど、その奥の深さに興味がわいてきます。また、フォルメンや水彩画やオイリュトミーは、みなさんもぜひ体験してみてください。からだが理解するというのはこういうことなんだ、と感じると思います。

(講演会後半は省略)

《感想から》
後半、フォルメンの話で図形を描くことで無意識のうちに「バランス」を学び取り、人生で何か問題が起こりバランスが崩れたとき、それを取り戻す力になるのだと聞いて、このフォルメンの世界を体験してみたいと思いました。
あとで、津山の体験講座に参加された方の水彩画を見せてもらって、なんともいえない気持ちになりました。私もあんな絵を描いてみたい。私は、自分が感じることを言葉にして表現することがうまくできない。本当に自分のやりたいことが自分でわからないと感じることがあります。
フォルメンや水彩画が「自分」を感じるきっかけにねるような気がするのです。(M.O.さん)



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