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えと・おーるつうしん49号
[2006.11.30]
■竹内レッスン 2006.11
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■ふぞろい野菜村便り
■口先徒然草
■心のそこから語る
■げんきだよりNo.53
■せっかくガンに…
せっかくガンになったのだから-2-
―父の死― by N.K
父はこの夏他界しました。
去年5月、倒れてガンと診断された時には、すでに手の施しようがないほど進行していたようです。
それでも玄米クリームや里芋パスタなどの伝統的な手当てと漢方の抗がん剤が功をそうして、全く普通の日常生活を半年以上も続けることができました。
入院当初の「手術できません」から、一月半後「手術できるところまで回復しました」になり、その時点で退院したのです。家族はこの調子で手当てと治療食を続ければ完全快癒とまではいかなくても、そこそこによくなって人生を全うできると確信していたのですが、自宅にもどってからは治療食をあまり食べようとしなくなりました。もっと元気になるために、動物性のたんぱく質をしっかり摂って太らなければと、家族が用意したものでは気にいらず、自転車で近くのスーパーへ買い物にいきます。それでも、今年2月、念願の米寿の祝いをすることができました。
その後も、近くの「老人憩いの家」で週2回の囲碁は欠かさず、元気な時と同じ日常の暮らしを続けることができましたが、ふたたび食欲がなくなり、6月半ば再入院しました。再入院すると同時に、家族もびっくりするほど急速に体力は落ちてゆきました。
もう残された時間はあまりないと感じた父は、自宅で最期を迎えたいと切望し、退院して、15日間を住み慣れた我が家で過ごすことができました。不安なく自宅で看取ることができたのは、近くの開業医の先生が毎朝往診してくれたからです。日曜日もお盆も関係なく、毎朝6時45分には来てくれました。ときには看病疲れで倒れてしまった母まで診ていただきました。最期の時が刻々と迫っているとき、朝が待ち遠しく、玄関に先生のすがたがみえるとほっとしました。
父は、病院ではできないこと、庭や、お気に入りの書画骨董を眺めたり、「美味しいもの」をリクエストしてほんの少量ですが食べたりと、我がまま一杯に自分の人生を生き切りました。家に帰ってしたいことの一つに、「美味しいお酒を飲むこと」があったのですが、帰ってからは、飲みたいと言わず終いでした。きっとお酒を飲んでみたいと思うほど気分の優れたときはなかったのでしょう。
納骨が終わって、父の飲みたかった「美味しいお酒」とはどんなお酒だったのだろうと考えました。
母が聞いていた父の「忘れられない酒」は、40年以上前にさかのぼります.
我が家では、米の裏作としてイグサを栽培していました。収穫は梅雨明け、土用の炎天下、短期間に行われます。そのときは人夫さんが何人も来て泊まっていました。その人夫さんの中に、夏はイグサ刈り、冬は酒蔵で杜氏をする人がおられたようで、その、杜氏さんの持ってきてくれた「あの時のお酒」がとても美味しかったと、病室で話していたそうです。
私は、父にお供えする美味しいお酒を、さいしょ「純米大吟醸」にしていたのですが、母からその話を聞いて、どうも違うような気がしてきました。精米歩合が50パーセント以下なんて、そんなもったいない製法のお酒を米作り百姓が喜ぶはずがない。父の飲みたかった美味しいお酒を造ってみようと、試行錯誤の始まりです。
幸運なことに、「あなたが使うくらいなら」と、天然酵母のパン屋さんが、門外不出の酵母菌をくださいました。我が家で出来た米を蒸して、夫の作った麹と天然酵母を加えて、どぶろく作りのスタートです。
出来上がったお酒を父の霊前にお供えしました。生きているとき飲みたかったよと苦笑しているかもしれませんが。
病床の父は痛みで苦しむことはありませんでした。ですから、ゆっくりいろんな話をしました。
「無駄のない人生なんてつまらない。
遊べるときにはしっかり遊んでおけ、
旅行できるときには旅行しておけ、
言いたいことは言っておけ。」
わたしはあなたのいのちをバトンタッチしました。たぶん、わたしは父の続きを生きています。
高千穂神楽で演じられていた神様たちの酒作りの場面を思い出しながら、日本の神様たちが飲んでいたお酒はきっとこんな濁酒にちがいないと思っています。わたしが最初に出会った宗教の「ぶどう酒文化」と八百万の神さまたちが愛した「濁酒文化」について考えるのも面白い。これこそ、とっても無駄な時間の過ごし方かも。
ガンは、正しい知識があり、それを実践すれば必ず治ると父の療養生活を通して確信できました。
父は21歳から6年間徴兵され、フィリピンで終戦を迎えました。食料がなくなり、やせ衰えて栄養失調で死んでいった戦友たちのことをいつも話していました。日本兵が戦った相手は敵国ではなく、飢えだったと。ですから、どんなに治療効果のある食事でも、体重が減ることは、死に近付いているという戦争体験のトラウマから抜け出せず、それがいちばん苦しかったようです。元気盛りの若者たちが、食べ物がないばかりに続々と死んでいった、そんな戦友たちと比べ、自分は十分生きたと、本当に静かに自分の死を受け入れました。
それは終戦の日でした。
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