49 えと・おーるつうしん49号 [2006.11.30] ■竹内レッスン 2006.11
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■口先徒然草
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■げんきだよりNo.53
■せっかくガンに…


げんきだより NO.53 より
とらいあんぐる体操教室      by Y.A

はじめに

 「秋田さん、なぜ泣いてたのですか?」竹内レッスン後、大阪から来られていたある女性に訊かれました。「なぜ?」…そういえば毎回レッスン中に涙が流れます。私はなぜ泣いてしまうのか…

 今回の竹内レッスンは、11月3日・4日の2日間で行われました。新聞記事や本、テレビなどでしか知らなかった竹内敏晴という演出家は、私にとって雲の上の人でした。その夢のような人をはるばる岡山まで呼び寄せ、竹内レッスンを初めて岡山で行ったのは5年前のことです。1年に1〜2回のレッスンを5年間受けてきた私のからだが、どのように変化してきたのでしょう。毎回、レッスンの度に気づく「自分」。息苦しくもなり、開き直りたくもなる。しかしそれは、時間をかけてなぜか私のからだに収まっていくのです。今まで1回1回のレッスンが細切れに私の中にありました。今回、初めてそれが1つの塊になって私に気づかせてくれたのです。
 私が泣いてしまう理由、5年をかけて、やっと実感したのです。
 レッスンが始まります。参加者は日常の社会生活で凝り固まったからだをほぐし、「人」を感じられるからだに戻すのです。からだが緩みリラックスしたところで、自分自身と周りの空気は集中していきます。自分の声を出すこと、自分の言葉で喋ること。自分の足で立つこと。
 レッスンの中で、人の姿がはだかになっていきます。その人が今までの人生で、どんなものを身につけざるをえなかったのかが明らかになっていくのです。その過程をただ竹内先生は紐解いていきます。どんな人でも「素」になった時、「素」になろうとしている時、その「人」がはっきりと見えます。その姿の愛おしさに私は泣いてしまうのです。竹内レッスンは不思議です。人に優しい自分になっているのではありません。自分もまた、はだかに近い状態でいるのです。本来、人間はこうなのだと思います。この感覚を、全ての人間が持ち直すことができるなら、人と人はつながれるのです。幸せはあるのだということを知りました。

もぉぅいい

 金曜日のゆったりクラスで、ダブルダッチをやってみることにしました。ダブルダッチは2本の長縄を交互に回して跳ぶ運動です。とらいあんぐるでは、高学年のクラスではやっていて、うまくなるとダブルダッチの中でさらに自分の縄跳びで二重跳びや二重あや跳びなどができます。学校でやっているところもまれにありますが、跳び方を教えられる先生が少ないことと、2本の縄を絡まず回すことの難しさで、跳べる子どもはあまりいないようです。
 ゆったりクラスの子どもたちも次々と回ってくる2本の縄に、びびってしまっています。縄を見るなり、「難しいからしません。」としんちゃんは言いました。「大丈夫よ。難しく見えるだけ。本当は簡単だから。先生の話を聴いてそのとおりにして。」子どもたちの目が真剣になっています。怖いけれど、やってみたい…そんな感じです。なんどかチャレンジを繰り返し、ほとんどの子どもが跳べるようになりました。跳べた時の満面の笑みは、こぼれ落ちそうです。ゆうやくんに順番がきました。不安な様子が伝わってきます。

「ゆうやくん、大丈夫。いい?こっちの縄だけを見るよ。」
「いい」
「いち・にい・さん・入って!」
頭を下げ、ためらいながら入ろうとした彼の顔を縄がこすりました。
「うっ、うっ、うっ、うっ、」
からだを上下に揺すり、彼のからだは硬くなっていきました。そんな彼の背中をさすり、「大丈夫」と声をかけ続けました。柔らかくなった彼に伝えます。
「さあ、ゆうやくん、もう一回やるよ。」
「やるよ」
「いち・にい・さん・入って!」
彼は、入ろうとするからだと、止めようとするからだの間で小さく揺れています。何度も声をかけます。
「いち・にい・さん・いま!」
恐怖と不安の中で、やっと入ってきた彼の頭にまた縄が絡みます。
「うつ、うっ、うっ、んーっ、」
私たちの励ましに何とか答えようと、繰り返しチャレンジしてきたけれど、彼のからだの中で大きくなってきた何かは限界にきていたのです。からだを更に激しく揺らし唸る彼に、私の「もう一回、もう一回だけやろっ」その一言が火をつけました。
「うっ、んーもぉぅいい」
ゆうやくんの言葉でした。ぐっと胸が熱くなり、目の奥が熱くなりました。ゆうやくんの言葉を初めて聴いたのです。彼は自分の意志を初めて言葉で伝えたのです。「わかったよ。よくわかったよ。ありがとう。」
今までゆうやくんの言葉はオオムがえしでした。しかし、彼のからだはとても正直に意志を表現するので、コミュニケートはできていました。たくさんの語彙を持つ健常児と呼ばれる子どもたちと比較しても。

 この一言は私に感動と衝撃を与えました。自分の言葉を取り戻すために竹内レッスンを受け続け、未だそれが困難な私。一方、ゆうやくんは竹内レッスンを受ける必要もなく、自分自身のからだと言葉を持っているのです。

ママ

 浦安の幼児クラスのお母さんにお願いをしました。子どもたちが落ち着かないので別の部屋で待って頂きたいと。皆さん気持ちよく理解して下さり、体育館は子どもと私たちだけになりました。思っていたとおり子どもの様子が変わってきます。自己主張をし始め、子どもと私たちの距離が縮まってきます。
 いつもきちんとできる、かのちゃんが、ゴロンと床に転がりました。お母さんの側にくっついているしょうごくんは、自分から私たちの所にやって来ました。集中できる空気が、生まれてくるのがわかります。
 レッスン後に、かのちゃんのお母さんとお話する機会がありました。
「先生、かのの様子はどうでしたか?」「うん、別人みたいでしたよ。でも、私はそのかのちゃんの方が安心。だって、顔が明るいもの。」
「えーっ、やっぱり…。あの日、かのに訊いたんです。ママがいるのといないのどっちがいい?って。そしたら、どっちでもいいけど、と言った後、ママがいるとママを見てしまう。ママの顔が気になるから。って言ったんです。」…
すごい言葉だと私は思いました。幼児の彼女がちゃんと自分のことを知っているのです。お母さんは、自分がしつけの厳しい家で育ったこと、そして、かのちゃんにはどうしても「きちんと」を要求してしまうということを、正直に話してくれました。子育ての難しさを親はみんな感じています。自分と違う人格の子どもが、自分の思いどおりにはならないことを。かのちゃんのようにはっきり表現してくれるとわかりやすいけれど、子どもは感じていても、言葉に置き換えることがうまくできません。言葉以外の表現も感じることのできるおとなでありたいと思います。
「ママが怒ったら、耳がやけどする。」
「ママに言われたら頭の中がグルグルする。」
「いうことをきけないときは、思いっきり叩いてくれたらきけると思うよ。」お母さんが教えてくれたかのちゃんの言葉です。胸が切なくなると同時に、子どもの言葉のすごさにため息がでます。おとな顔負けの表現力と感覚。「一緒につぶさないようにいこうね。」お母さんと私はそう話しました。

子どもの言葉

 さとしくんがたけちゃんに訊きました。「たけちゃんの学校の先生は、おねえさん先生?おばさん先生?おばあさん先生?」
考えこんでいるたけちゃん。
おそるおそる私が訊きました。「じゃ、さとしくん、ゆうこ先生は何先生?」「うーん、…おねえさん先生とおばさん先生のあいだの先生。」
「やったー。」私もこれを喜ぶ歳になったようです。
 ノートの順番を取り合っているたかくんとかなちゃん。私が先だとか、ボクの方だとか…そんなふたりの後ろに並んでいたひとちゃん、「じゃあ間をとって私ということで。」ひとちゃんが森山先生の前にノートを差し出しました。真面目でおとなしいひとちゃんのひょうきんな笑える一言でした。そして、もっとおかしかったのは、かなちゃん。結局、たかくんとジャンケンをして負け、後ろに並んで待ったあげく、ノートは縄跳びを跳んだ時書いてもらって終わっていました。
  出席をとっていました。「こんにちは」と声を掛けると、かほちゃんから「ナマステ」と返事が返ってきました。「うーん、どこの国の挨拶だったかな?なます(膾)?」と私が言ったら、「膾って何?」と子どもたち。少し離れたところにいたたっちゃんが、「ゆずなますか」と真面目にぽつり。さすがたっちゃん、生活知識が豊富だわ。



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