43 えと・おーるつうしん43号 [2005.11.30] ■竹内敏晴レッスン
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*竹内敏晴「からだとことばのレッスン」*

  2005年11月 6〜7日

NAGI

11月のレッスンはゆったりと時間がとれました。
いつもにも増してこころ動かされた2日間となりました。

2日目,「おててつないで」では,一人一人がうたいました。スタッフのTさんのとき,Tさんはしり込みしているように見えました。でも,竹内さんはTさんを離しませんでした。Tさんが竹内さんの肩を押しながら,何度も何度もうたう姿を見ていると,熱いものが込み上げてきました・・・。

そして私の番。私は(いつもそう指摘されるのですが),「声が大きくてはっきりしていて一見伝わりそうななのに届かない」と言われました。職業人として人に教えたり,指示したりするときの「声」なのです。長い間こういう声が自分の「声」だと思い込んできている・・・。竹内さんの肩を押しながら二度,三度うたいました。そして何かが自分の中ではずれたとふっと感じたあと,私の声は自分でもびっくりするくらい温かいものになっていました。低く,やわらかく・・・,うたいながら,うたっている本人が癒されていくような声でした(自分の声なのにこんなことを言うのはおかしいのですが)。

このレッスンでは,歌っている人の思いが伝わってきたり,一生懸命な姿に胸がきゅっとなったり・・・それは,そのあとの「出会いのレッスン」でも同様でした。心がずいぶんと波立ちました。そんな思いを重ねながらレッスン終了のときがきました。
みんなで輪になって「夕焼け小焼け」の歌を歌いました。
2番の「子どもが帰ったそのあとに  丸い大きなお月様・・・」を歌っているとき、ふいに涙がこぼれ出してきました。「???」自分でもなんで涙が出るのか分かりません。でも,どうしてかわからないけど、悲しい涙ではないということはわかりました。

あとで「しあわせ」という言葉が浮かんできました。
今回のレッスンでは,参加者の方々に対し,ほんとに一生懸命生きているなあ、けなげやなあ―という気持ちが湧いてきて,一人ひとりがいとおしくて、いとおしくて、抱きしめたいという思いが身の内からわきあがってきました。
私は明るくはきはきした人間だと思われているようですが、「人間」に対して懐疑的だったり、自分を信用してなかったり、人と触れ合うことに自信がなかったりします。
そんな私が無条件に、自分も含めて、その場の全員をいとおしく大切だという気持ちになれた――それがとてもうれしくて幸せだと感じた「涙」だったようです。

その気持ちが続いていたからでしょうか。
岡山駅で竹内さんをお送りする時,反対方面に帰られるお二人の参加者もごいっしょしました。改札口のところでお一人にはさよならが言えたのですが,切符を買われていたもう一人の方に挨拶できていませんでした。心残しながらホームに上がるエスカレーターの手前で振り返ると,お二人が向うのホームに上がる階段を上ろうとしているのが見えました。
聞こえるかどうかわからないのに,思わず「○○○さーーん」と叫んでいました。

ぜひさよならが言いたい,そんな思いがあふれて,自分でもびっくりするくらいの大きな,確かな声が出ていました。乗降客であふれる広い構内を,私の声が突っ切って飛んでいくのが感じられました。
そして,・・・振り返った彼女は花のような笑顔で応えてくれました。
あの時の私の声は「思い」を持った声だったのだと,思います。

は ざ ま

――私は目の前の相手と本当にコミュニケートしているのだろうか? 「じか」に触れるとはどういうことなのか? 触れる、話しかけるとはどういうことか?私は何をこわがっているのだろうか、人が人として立つとはどういうことなのか、自分とは一体何者なのか・・・。
この2日間は私の中ですごく大切な2日間となりました。
スタッフの皆さんのご尽力あってのことだと、とても感謝しています。
場を設けてくださったおかげで、竹内さんを囲んでみなさんとお会いできて、本当にありがたく思っています。帰りにMさんと「あたたかいね」と話して帰りました。

田中さんのご主人様のおつゆ、からだにしみとおるようにおいしかったです。私は実は、人前でものを食べることに困難を感じる病にかかっています。普通人前では食事をとれないのですが本当においしくいただきました。
「たべもの」っておいしいんだな、みなさんとわいわいいいながら食べるって楽しいんだなと思いました。田中さんのご主人様にも感謝です。

私はもともとは広島で働いておりました。病気になり、ひきさかれるおもいで福岡にきました。6年になります。こちらには、友だちもおらずなんとか、どこかに所属しようと思い、やっとのおもいで入学した大学院もドクターストップで休学中です。
毎日、一人で横になって、一日を過ごしています。恥ずかしいですが、最低限の家事をするのがやっとなのが実情です。
そんなわけで、人と出会うことを本当に求めているのですが実は怖いのです。けれど岡山に行くことはなぎたさんのHPやメールでのやりとりもあってからだが無理なく動きました。
                        (中略)
なぎたさんの夕焼けこやけの時の涙や「おててつないで」のしみじみとした声、心に残っています。

そして駅で「○○ーさん」と呼びかけられたときその声は私のところにまっすぐに,とても実感 を持って届きました。本当に嬉しかったです。あのなぎたさんの声はことばに手をふれることができそうな質感がありました。今でもありありとなぎたさんの声はもちろん聴こえますし,場面とか全部ひっくるめて思い出せます。わたしの中に根付いています。名前を心からよばれる経験ってそんなにないように思います。
でも、考えたら名前ってその人なんですよね。
なぎたさんが「○○さーん」ってよびかけてくださったとき,「私」というものがリアルになってすごく大切にしていただいた感じがひろがってとても嬉しかったです。
なんというか名付けるってこういうことなのか・・・はじめて自分に名前が与えられよびかけられたときの感情ってもしかしてこんな感情?と思いました。
あったかくてひろがる感じや喜びの感じ・・・
この体験をどう表現したらいいのかわからないのですが人を大切にするって特別なことでなくてシンプルでささやかなことの中にあるのだなと思いました。
もどかしいけれど、あたたかい涙があふれるくらいそして笑顔が苦手な私がぱっと笑顔になれたくらいな出来事でした。
私は,もともとは読書や文章を書くことが好きなのですが、今や、本を読むことは一年に3回?くらい。神様が与えてくださったとっても調子の良い日しかできません。
でも、みなさんそれぞれが、誠実に生きていらっしゃる姿にであい、私も私も毎日を丁寧に暮らそうと思いました。

レッスンに参加して         澤根 みどり

竹内敏晴さんの「心と体のレッスン」に参加する。もう5回目くらいだろうか。普段は無意識でしているいろいろなことについて、「どういうことなんだろう」と意識したり考えてしまう時間だ。たとえば声を出す、ということ。自分の本当の、本来の声はどんなものか。人に呼びかけるってこと。相手を見る、ということ。自分の気持ちを自分はわかっているのか、ということ。気持ちを伝える、ということ。

それから。自分の体はどんな風に感じているのか。今、自分は気持ちいいのか、よくないのか。自分は今、目の前にいる相手と付き合いたいのかどうか(損得とか、世間的な良い、悪いをなしにしたら)。自分は今、何をしたいのか。こういうことを、いつもの生活ではちゃんと大事にしないで過ごしてしまっているんだな、という事も感じてしまうレッスンだ。

2日目に。「おーてて、つないで みなかえろう」と歌う。ひとりずつでも歌う。声がしっかり出ていなければまず息を出してみる。ら~~と声を出してみる。「おてて」と誰かに呼びかけて声が届いているか。声が出ない人は、竹内さんの肩を押しながら息を出したり、声をだしたりする。この日の参加者15人全員がこれをした。

おてて、と言って相手に呼びかけていても、おてて、の声が途中で途切れたり、引っ込んでしまったりする。竹内さんが呼びかけられた方の人にたずねる。「自分がちゃんと呼ばれた気がしました? 手を出して一緒に行こう、という気持ちになりました?」 普段の生活では意識しては考えることのないことだ。
私は おてて、と呼びかける時、声のトーンが高くなっている、と言われた。もう少しトーンを下げた方が、落ち着いた声になるし、声にリアリティがあって、ちゃんと通じる声になるよ、と言われた。確かに、ひょいと声が上がっている。気をつけてさげた方が、自分でもなじむ感じがした。

出会いのレッスン、というものをした。2人が、部屋の右端と左端に分かれ、壁を向いて立つところから始まり。心の準備ができたら、振り向く。その時にそこにいる存在としてのもう一人の相手をみて、とにかく自分の感じるとおりに行動をしてみる。普通の社会的な場ではないから、その時、自分の感じるままやってみる。相手のすることが、いやだったら、拒絶するし、逃げるし。だから相手のことを気にしないで感じるままに動いてみる。自分の知っている人だとしても、今までの知識ではなく、その場で見たとおり、その場で感じたことによって動いてみる。自分で、もう終了にしよう、と思ったら最初にいた所と反対の端に行って壁を向いて座る。二人ともが壁を向いて座った時点でこのレッスンは終わり、ということ。(1人が終了、と決めて座ってしまっても、もう1人がその人にアプローチを続けてもいい。)
他の参加者は、その2人の動きや様子を見ている。終了後にレッスンをした2人も、見ていた人も、このレッスンの間に感じたこと、気づいたことを言葉にして言ってみる。
これだけのことなのだけれど、やるのはもちろん、見ている方も本当に緊張する。人と人が出会う、という事は、実は本当にたいへんな事なんだ、と感じる。形式として、とか約束事で挨拶をして、というわけではないから。実生活でもどこかのレベルではこのたいへんな事を毎日しているんだろうな、と思う。

出会いのレッスン、でも、出会うことにこだわらなくていい。だから、出会いたくない相手だったとしてもいい。出会いたくない相手だったとしても、その相手とどうすれちがったのか、どう関わったのか。関わろうとしたのか。どう逃げたのか。それが全部 レッスンになる。

それでも、日常にとらわれないで、その時に、自分が感じるままに、したいようにすれいい、ということがなかなかできない。つい、こんなことはね、とか考えてしまって、自分の感じるままに行動できなかった。普段、自分の気持ちよりも、世間的な約束とかに乗って自分の行動を選んでしまっている、というのがわかる。

「相手もいやなら拒否するんだから」という事になっているのだけれど、それでも、「この人は、もしイヤだったらちゃんと拒否したり逃げるよね」と相手を信頼していないとできない。そして自分のしたことを拒否されたり、自分から逃げられたり、というのは実は、本当に切ない、つらい事なんだ、ということも感じてしまう。普段は小さい拒絶は当たり前で仕方のないことなのだけれど、それでも少しずつ、つらくて傷ついた思いをしているんだろうな、と思う。

別の人のレッスンの後での竹内さんの言葉。「自分はもうこれでいい、ならば自分で判断できる。相手はどうだったんだろうか、ということを考えると自分では判断できない。きりがない。自分が生ききれているかどうか。」
相手を思いやる、ということはもちろん大切なのだけれど、相手はどうだったか、というきりのないことを考えてしまうと、自分はどうなんだ、ということもよくわからなくなってしまうような気もする。私も、家族相手にこのきりのないことを気にしてる事がけっこうあると思う。(そして1人で疲れて一人で不機嫌になってしまう)

出会いのレッスンに限らず。レッスンの場では、いろいろなことが純粋な形で現れる。それを気がつかないで、というか、実はうすうす感じながら、日常の生活でもしている、ということだ。だからレッスンで現れた自分のやり方、自分の感じ方や癖を、日常生活の中でも意識してみることで周りの人や自分の気持ちとももっと折り合いをつけてうまくやっていけるのかもしれない。

からだが出会い、ふれるということ  植山 文雄

 竹内レッスンへの参加ももう10回近くになるのではないだろうか。
 これまでは、緊張している自分のからだに気づくことは何回かあったが、“からだが感じて動く”という経験はほとんどない、と自分では思っている。つまり、“頭で考えて動くからだ”から抜け出せないでいるのだ。
 だから、竹内さんのいう「からだの解放」は“あたま”では理解できるが、“からだ”ではいまだによくわからない、と言い続けてきた。実際、その通りなのだが、よく考えてみると、私のからだは(特に対人関係において)解放されることを怖がっていたのではないか、という気がする。
 今回のレッスンも、1日目は吃音教育に関するセミナーとぶつかってしまい、2日目のみの参加となり、内心ちょっとほっとしている自分がいることを感じていた。
 正直言って、他の参加者のこえとからだが変わっていく場面に立ち会えればいいと思うぐらいで、自分のからだが解き放たれることなど想像もしていなかったのだ。
 そして当日、午前中は「呼びかけのレッスン」が行なわれ、自分の状態は今ひとつわかりにくかったが(いつものことだが)、他の人の“こえとからだの変化”はなんとなくわかった。
 午後は「出会いのレッスン」。
 私は“参加者の視線のもとで、他者と出会い、自分のからだが感じ動くままにまかせること”など、今の自分にできるわけがないと思っていたので、竹内さんが希望者を募ったとき、手を挙げなかった。
 しかし、なぜか竹内さんは、何組かの「出会いのレッスン」が終わった後、私を指名した。
 正直なところ、どうしようかと思った。ここで逃げ出すわけにはいかないし(本当は逃げてもいいのかもしれないが)、かといって私が他者と出会うことなどできるわけがないし、もうどうでもなれ、という気持ちで“空間が仕切られた「結界」”に入っていった。
 竹内さんが「どうぞ」と言った後も、私はなかなか動けなかった。振り返って、もう一人の人間と向き合うことが怖かったのだ。
 やっと、こころとからだを集中して、というより意を決して振り返ったが、予想通り、「結界」の中にいるもう一人の人間の顔を見ることはできなかった。すると、相手はどんどん近づいてきた。私は不安を感じ、そして耐えきれず、座り込んだような気がする。座ったままで、やっと相手のの顔を見ると、その人は笑顔で何かを伝えようとしているように見えた。しかし、私にはその笑顔がどうも信じられず、「こりゃだめだ」と感じて逃げ出そうと思ったが、からだは動かなかった。すると、その人は私の背後に回った。私はその人の動きが気になったが、後ろを向くこともできず、そのまま座っていた。すると、その人は私の背中に手を置いたようだった。私は驚き、思わずからだを動かしたような気がする。その瞬間、その人は手を離した。なぜ、私のからだは動いたのか、自分でもよくわからないが、その人の意外な行動への驚きと、相手が見えない状態でふれられることへの不安のためかなという気がする。
 その後、相手は私の左前方に再び現われた。
 そのときは笑顔は見えなかったが、最初出会ったときの印象とは異なり、ちょっと安心できた。なぜかはわからないが、そのとき私はその人にふれてみたいと感じた。私が手を出そうとすると、ほぼ同時だったと思うが、相手も手を出してきた。手を握っていると、一層安心でき、気持ちもよかった。
 そのままでもよかったのだが、なぜか歩きたくなって、場所を移動した。もしかしたら、相手との向かい合い方に違和感を感じて、自分の居心地のいい体勢に変えたかったのかもしれない。
 相手と手を握ったままで座っていたが、「もうそろそろいいかな」と少し思ったが、その状態が気持ちよかったのでそのまま座っていた。
 こうして、私にとって初めての「出会いのレッスン」が終わった。
 レッスンでのからだの動きを自分なりに理由づけようとするが(そんな必要はないのだが)、そのほとんどはわからない。自分のからだの動きが自分では理解できないという不思議な体験をしてしまった。
 たぶん、レッスンの相手との関係性と、その場を保障し、見守ってくれたレッスン参加者の存在のおかげで、私のからだは感じるままに動いたのかもしれない。
 よくわからないが、もしかしたら、私は「からだの解放」に向けて一歩、いや半歩歩み出したのだろうか?(私の錯覚かもしれないが・・・)
 このまま、「からだの解放」に向けて歩み続けることができるのか、はたまた、「閉じ込められたからだ」に戻るのか、私にもよくわからない。

H.Y

今年の1月に初めて岡山での竹内レッスンに参加した時は,何が何か良く分からないままに不完全燃焼で終わりました。でもその時に竹内さんに声を聞いて貰い,竹内さんの肩を左腕で押しながら「春」の歌を歌った時に、始めは出なかった声が急に伸びやかな声に変わったのにはとても驚きました。
日ごろから「音痴」を自覚している私としては,人前で歌を歌うのが嫌だったのですが、これは歌のレッスンではなく声をだすレッスンだからと割り切って声を出すことだけを考えました。そしてその結果、前にある衝立が急になくなったように、声がすんなり前に伸びていきました。また、その後に母音がでていないとも言われました。私は早口、せっかちなので、これは気をつけなければと思いました。

岡山から帰った後、お風呂場で壁を竹内さんの肩と思い、「春」の歌を1ヶ月ぐらい歌って、その時の感覚を思い出していました。

今年の夏に名古屋の竹内レッスンで「こえの気づき、詩の朗読あるいは語り」がテーマになっていたので、参加しました。私の目的がストーリーテリング(「お話」)が上手くなるようにというものだったので、声や語り中心のレッスンに心引かれたからです。
この時は歌、詩、落語、語りなどいろいろの読み物を体験しました。

今回の案内を見たとき始めは参加するつもりはなかったのですが、ふっと空いている土日のレッスンでもあり、なかなか「お話」の方も上手くいってなかったのでもう一度参加してみようと思い、申し込みました。

今回のレッスンは私に強い印象を残しました。
「ふるさと」の声だしの時、急に声が伸びて自分でも不思議だったこと。
出会いのレッスンで普段の自分ではない自分を発見したことです。
日常の生活の中ではあの「出会いのレッスン」で私が取った行動はとても考えられない行動なのです。レッスンを始める前に心に思っていたことは、兎に角「自分の気持ちに正直に行動しよう」でした。その結果があの状態でしたので、私自身今でも信じられない気持ちです。
レッスンが終わった後も2、3日あのレッスンのことが頭から離れませんでした。そして普段自分で意識していない、別の自分がいることに少し慣れてきました。もう少し日をおいて、自分を見つめ直したいと思っています。

竹内さんの言われる「からだとことば」に今非常に興味を持っています。
今は「お話」が下手で良かったと思っています。
それでなければ竹内レッスンに参加することもなく、「ことばとからだ」について考えることもなく、そしてレッスンに参加していた皆さんとも知り合うこともなかったのですから。
岡山でのレッスンはとても暖かい雰囲気でのレッスンです。これも皆さんのお陰です。
次回のレッスンが楽しみです。

● 竹内 敏晴(たけうちとしはる) ●

1925年東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家として劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。のち,宮城教育大学教授、南山短期大学人間関係科教授。
現在「からだとことばのレッスン」主宰、人間関係の気づきと変容、障害者療育に打ち込む。

著書に,『ことばが劈かれるとき』(思想の科学社),『子どものからだとことば』(晶文社),『教師のためのからだとことば考』(ちくま学芸文庫),『癒える力』(晶文社),『思想する「からだ」』(晶文社),『待つしかないか。 −21世紀身体と哲学−』(春風社),『からだ=魂のドラマ −「生きる力」がめざめるために−』(藤原書店)など。



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