6月28日、妻の祖母が亡くなった。88歳。大正生まれの女性ならではの、さまざまな苦労を背負った一方で、家族とともに楽しい時間を過ごすこともできたようだ。幼い頃から可愛がってもらってきた妻にとって、喪失感は計りしれないものがあっただろう。しかし私の目には、祖母の死に顔がとても安らかに映り、残された者たちに微笑みを投げかけているようにも見えた。
わが家の息子、娘にとっては、身近に感じたであろう、初めての「死」だった。臨終には立ち会えなかったものの、亡くなる前日に病室を訪ねることができた。その時、すでに祖母の体からはぬくもりが消えようとしており、やせ細った手を思わず息子に握らせた。その冷たさは、死が間近に迫っていることを、彼にも十分実感させるものだった。
次に彼らが対面した時、祖母は、すでに棺の中に収められていた。そして葬儀の後、目の当たりにしたのは、だびに付された「お骨」だった。ほんの数日の間に、一人の人間が物体へと変わる過程をまざまざと、目に焼き付けたわけだ。 葬儀の後で「おばあちゃん、かわいそう」「寂しい」といった、彼らなりの言葉を残していたが、その表現について、とやかく語るつもりはない。死によって「人が物体となる事実」を体感したことこそが、重要だからだ。
子どもたちが抱く、死への現実感が希薄になった、と言われて久しい。佐世保市で起きた、小六女児殺害事件の加害女児に対する家庭裁判所の審判決定でも、この女児が被害者の命を奪ったことの重大さや、残された家族の悲しみをいまだに実感できていない、と指摘。そうした背景として、自分自身の悲しみの経験、他者への共感を基盤にした「死のイメージ」が希薄で、人の死は「いなくなる」という現象にとどまっている、と述べてある。
数週間前、長崎市内の小学校の授業風景が「NHKスペシャル」で紹介されていた。六年生のクラスの担任教師が子どもに「人間は死んだら生き返るか」と問いかけたら、33人のうち28人が「生き返る」と答えた。中には輪廻転生的な考えが宿っている子がいるのかもしれないが、「生き返る」と答えた1人の女児は、自宅で母親がじっくり説明しても、死がもたらす冷厳な事実について、理解できていないようだった。
私がこの番組を見ていた時、近くに息子と娘もいたので、教師と同じ問いをぶつけてみた。息子は少し考えて「天国に行って、そこで暮らし続けるかも。でも、この世では、骨になってしまい、自分たちと二度と話をすることもできない」。娘も同様の答えだった。どうやら、死についてまっとうな感覚を持っているらしい。ほっと胸をなで下ろすとともに、気づいた。「祖母の死がそう思わせてくれている」と。
身近な高齢者の役割っていろいろあると思う。「猫かわいがり」のように、孫に愛情を注ぐ祖父母の存在などは、その典型かもしれない。でも、ひょっとしたら、彼らに与えられた最大の仕事は、死ぬということの意味を、わが身をもって次の世代に伝えることなのかもしれない。
彼岸の中日、家族と共に祖母の墓へ参り、手を合わせた。寂しさと同時にわき起こってきたのは、「感謝」だった。
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