就職したものの暇で暇でいたずらに時が過ぎてゆく
今は、「できないところが見つかってよかったね。できるようになる可能性のあるところが見つかったんだから」なんて言いながら学習塾をやっているのだけれど、大学を卒業したてのころはできないことだらけでたいへんだった、あたりまえだけど。就職したのは、コンビナートのエンジニアリング会社。作業服にヘルメット、それに安全靴、安全帯が制服だった。夏は暑かったなあ。配属先は四日市市のオートメーションで動く工場を制御する部門の建設や保全に携わる部署だった。
1年目は、研修ということで大手化学会社の保全を委託されている部署に配属された。主な仕事は、機械の修理・点検と突発事故への対処だった。突発的なことに対応するために夜中でも呼び出されることがあったり、工場を止めて修理する時期はやたら忙しかったりした。だが、ふだんはとにかく暇だった。暇なので、10数人が詰め所に集まってだべる。5時前から帰る準備をして、飲み、デートとそれぞれに散っていく。私はデートの相手もいないので、テニスとソフトボールをし、誘われれば飲みにも行った。
詰め所には、いろんな年齢、いろんな経歴をもった人が集まっていた。改造車のパレードに参加するという人、すぐにナンパする人、ケンカっぱやい人、それまでまわりにいなかったタイプばかり。たぶん、ほかのひとは私のことをそう思っていたはず。今ならお互いさまだと思うけど、そのときは付き合いにくいのはその人たちのせいだと思っていた。知らない世界の人たちとどう付き合うかで悩んでいた。職場は、とにかく暇だった。暇の使い方がわからない、人との付き合い方がわからない。このわからないことがその後の人生に大きな影響を与えることになるとは当然ながら、そのときはわかっていなかった。
わからないこと苦手なことだらけで胃の痛む日々
研修を終え、2年目からの主な業務内容は、設計・監理・見積もり・査定になった。その中で、圧倒的に多かったのは修理のような小さな工事を協力会社さんに依頼し、監督するという仕事だった。
月末には協力会社の社長と工事金額の折衝をする。それは、文字通り胃の痛む思いだった。社長は、月末の支払いができなければ会社の存続ができないのだから必死だ。当然、押しの強い方ではない若造の私はなめられる。それでも、私も会社から利益率を上げろと言われているので、言いなりにはなれない。粘った方が勝ち。憂鬱な月末だった。
事務所の女の子から「しょっちゅう大学時代の話になるね」と言われたことがあるから、楽しめていなかったのだろう。とにかく大学ノートに思いをつづることが、自分の開放への第1歩だった。2年間にわたってとにかく書き連ねた。
さて、たまにプラント建設の競争見積もりに勝つと、設計の仕事がやってくるのだが、設計のやり方がわからない。安全・安価で効率よく、見栄えのよい工事方法はなんなのか、できたばかりの事業所で教えてくれる人が誰一人としていなかった。勉強の仕方がわからなかったので暇だった。図面を引いていたら眠けが襲ってきた。創造力を発揮するやり方がわからなかった。
セルフラーニングを知った今なら、「毎日できることを続ける、指導者を探す、実験的にやってみる、完璧を求めない」など自由度を広げ、いろんなやり方を試してみると思う。けれど、自分で切り開くという発想のない完全受け身状態だった当時はなす術がなく、自分には向いていないと思うばかりだった。
正解のあることは努力次第でなんとかなるから好きだった
仕事の中で一番好きだったのは、コンピュータープログラミングだった。そのころはゲーム機でも64ビットある今とは比べ物にならないくらい幼稚な機械で、8ビットマシーンが主流だった。今のようにソフトも流通していなかったので、並べ替えや抽出なども手作りをしていた。それが好きだったのは、正解があったからだ。ソフトが、まともに動くか動かないかのどちらかだ。バグを直せば、動いてくれる。要するに自分次第なのだ。うまくいくかいかないかは自分の努力次第なのだ。
自発的人生への第1歩
しかし、ほかの仕事では、自分ではどうすることもできないことばかりに見えた。職場の人間関係・取引先とのネゴシエーション・売上…。それらは、正しい・間違っているでは決まらない世界だった。人との関係性を考えなければならなかった。そこには正解はなかった。わからないことに突入しなければならなかった。苦手とする分野に違いなかった。無力感にさいなまれていた。
ストレスはたまる一方。日々の緊張から逃れたくて、リラックスする方法はないかと足しげく本屋に通うようになった。精神世界コーナーができたころで、「○○法リラクシゼーション」「初心者でもできる気功」のような本がたくさんあったが、その中で気になったのが「存在の詩」(バグワン・シュリ・ラジニーシ著)の一冊だった。書いていることはよくわからなかったが美しい表現だった。知らない世界があるみたいだった。読み終えて、巻末にあった名古屋のアシュラム(名称は忘れた)に電話をかけて行ってみることになった。紹介もなく、見ず知らずのところに飛び込むのは初めてだった。そんな自分が信じられなかった。(つづく)
|