どのような時間の使い方をしたかという「納得」が評価となる
「暇つぶしの時代 ――さよなら競争社会」(橘川幸夫著;平凡社)という本を読みました。「横田さんの顔見たら思い出した」と紹介してくれた人がいたのです。第1章の「暇つぶし産業論」の冒頭には「成熟化した工業社会の基幹産業は『暇つぶし産業』である。自分の『暇』と真正面から向かい合うことから、本当の21世紀が始まる」とあります。「暇」というのはわかりにくい概念ですが、本文から少しばかり引用しましょう。
これまで「音楽を聴く」ことも、「読書する」ことも、「旅に行く」ことも、個人的な時間の使い方はあくまでも余暇であり、余暇を上手に使うことによって、仕事すなわち生産労働の時間を活性化させることに意味があった、余暇はあくまでも、生産のための補助手段であった、しかし、これからは「自分の時間」が従ではなく主体になる、時間をきれいに消費することが、高級ブランドを身にまとうより、おしゃれな時代になってくる。評価基準も、物質文化の時代のように、客観的な基準があるわけではない。誰もが認める絶対評価はなくなり、個人がどのような時間の使い方をしたかという「納得」が、それぞれの評価となる。
他からの「評価」でなく、自らの「納得」が選択基準となるということに納得です。だいじなことは、生産労働という「目的」のために遊ぶのではなく、どう時間を使ったかと「やったことを納得する」というところだと思います。反省ではなく、納得というところで肯定感が生まれそうです。
そして、著者は「余暇」ではなく、「遊びのような仕事、仕事のような遊びこそ暇つぶしなのだ」と言います。
このような働き方のことを著者は「オーナーシェフ型」と呼んでいます。
オーナーシェフ型企業
チェーン展開された店舗の経営者は、店舗数と来店人数と売上高と経常利益の増大だけが「喜び」となる。組織を拡大し、数字の向上を喜びとする人材が、優秀な人材とされる。これに対して、「作る喜び・売る喜び」を商売の原点、企業の原動力とするのが「オーナーシェフ型企業」である。これから仕事をするなら、選択する方向は2つしかない。ひたすら企業規模を拡大して「組織を監理する喜び」を持つ方向か、オーナーシェフ型の経営を行い、自らが「作る喜び・売る喜び」を体現しながら生きていくか。どちらが正しいとは言えない。ただし、中途半端な形態はあり得ない、ということだけは肝に銘じておくべきだと思う。
私塾を営んでいる私には「作る喜び・売る喜び」というところは実際的にはわかりません。ただ、売り上げや利益だけでなく、仕事そのものを楽しむことが、さきほどの「仕事のような遊び、遊びのような仕事」ということであれば、私の仕事は年々そのようになってきています。「ほとんど遊びじゃが」という声も聞こえてきそうではありますが・・・。
楽しめ!
ここで感じたのはどんなことであれ、目的のためになにかを犠牲にするのであれば、今までのやり方と変わり映えがしないということ。
先日、メジャーリーグのワールドシリーズでの優勝監督が、「負けそうになったとき、優勝というプレッシャーに押しつぶされそうになっている選手に『野球を思う存分、楽しんでこい』と言ったんだ」
と話していました。優勝という目的のためではなく、野球そのものを楽しめということだと思います。ただ、「楽しめ」と言われても、「はい、それでは楽しみます」と言い難いのが今までの日本人なのではないかと思います。ひとつ見えてきたのは、犠牲にしない働き方ということでしょうか。
「暇」の自覚
もう少し引用を続けることにします。
まずは「暇」の自覚である。高度成長の荒波をくぐり抜けた人はわかっているはずだ。今も忙しいが、高度成長の時代の忙しさとは違うということを。忙しいフリをしているだけで、精神の根本のところでは、「暇でしょうがねぇ」と大あくびしていることを。暇の自覚の下に、なにをするのもなにもしないのも自由である。そこで別の方向に誘導したり、指示したりしたら、それはまた多忙な時代の発想になってしまう。暇なんだから結果を焦ることはない。自然の流れの中で、時間と自分と、そして関係性を楽しめばよいのだ。
「暇」というのは思いのほか手ごわい相手のようです。なにせ実体がないのですから。研究の価値ありです。
これまでの社会は、たくさんの器を作ってきたが、中身はからっぽというものが多い。中身は「暇」で一杯なのだ。それをいろいろな人が、ひとつずつ「つぶし」ていくことが必要になってくる。工業社会は器を作るのが得意だが、中身を作ることは不得手である。器を人の心で満たす人材育成は、今後の大きなテーマである。
そう私が生きてきた時代は、器を作るのが得意な時代でした。テレビ・冷蔵庫・パソコン・高速道路・携帯・○○ドーム…。これからは、そこになにを入れるかだ、と言われてからも久しいような気がします。
作ることに専念できた時代の暇は罪悪ともいえるようなものでした。欧米に追いつき追い越せとがんばって、一息ついた今、「暇」が私たちのなかに息づいていると言われれば、そのようにも感じます。それを「退屈」と呼ぶ人がいます。「虚ろ」と呼ぶ人もいます。
しかし、あわてて「暇」をつぶしたり、「退屈」を追いやったり、「虚ろ」を埋めたりしてはもったいないような気がします。そこにはなにかがあるようで…。
目的がないから暇?
著者は、「究極の暇つぶしは瞑想だと思う」と書いていました。
「暇つぶし」として、なにが目的なのかはっきりわからない瞑想はいいと思います。
この前は、「退屈する合宿みたいなものをやろうかと思っている」と言ったら、「ぼーっと療法」というネーミングをしてくれた仕事仲間がいました(治療を目的にはしていないから正確には療法ではありませんが)。それで、積極的にぼーっとすることをやってみたら、これはなかなか気持ちのいいものでした。「ぼーっと」や「たいくつ」は、やはり捨てがたいものでした。
考えてみたら、私が今やっている算数のプリントなんて、究極の「暇つぶし」かもしれません。受験もテストもない大人の私が算数をやって、「気持ちよかった」だの「脳の回路ができてきたような気がする」だの「この年になっても計算力がつきつづけている」なんて言っているのですから。考えてみたら、こんなことが仕事になっていることは幸せなことでしょう。
自分の時間ってなんだ?
「自分の時間を生きる者が『子ども』、社会の時間を生きる者が『大人』」と書かれていました。本からは、「自分の時間を生きる」とは、「純粋に楽しむ」というニュアンスが感じられました。
人に与えられた「目的」を遂行する時代から、やっていることを純粋に楽しんでもいい時代に変わりつつあるのかもしれません。
私にとっては、「純粋に楽しむ」ということがむずかしいことのように思ってしまうのですが、「純粋に楽しむ」ことが少しずつでも、できるようになったらいいなあというのが実感です。
「暇つぶし」という言葉は、まだ消化しきれていないのですが、「やっていることに意味なんかなくてもいいじゃないか、意味は後からついてくる」なんて言えたらいいなあ、と思うようになってきました。
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