声明が沈黙の時間に
水輪(長野県飯綱高原)で行われた合宿に行ってきました。妻宛にきたパンフレットにあった「声明(しょうみょう)」という文字が目にとまり、習えるものだとも思っていなかったのでやってみたくなったのでした。
合宿がはじまってみると、自己紹介のあと講師の宮島基行師(高野山真言宗僧侶)は「いまから、3日目の朝まで沈黙に入ります。朝はお経を唱え、昼からもお経についてのカンタンな説明もしますが、休憩時間はだれともしゃべらず、なにもしないでください。なにもしないという特別なことをするのではなく、ただただ退屈してください。それが自分の内側への入口です。ふだんは新聞やテレビで退屈しのぎをしていると思いますが、一切しないとどうなるか試してみてください」と言います。
「声明」を期待していた私は、驚いてしまいました。
以前だったら、「そんなことなんの前触れもなく勝手に決められたらたまらない。そんな合宿だと知っていたら申し込まなかったのに。だから、仏教は上意下達的でいやなんだ」とかなんとか反発を感じていたかもしれません。でも、そういえば講座のタイトルは「静かに自分の内側を見つめる」でした。勝手に「声明を習いたい」と一部分だけをピックアップしていたのです。
実際にやってみると挨拶も会釈程度で極力気を使わない生活はしごく快適なものでした。おいしい食事も用意されているので、やることは掃除と食べること、お経を唱えること、講義を聴くこと、それに風呂に入り、トイレに行けば、あとはなにもしない時間が待っているのです。
初日の夜は横になっていると、その前に聞いた水輪のオーナーから聞いた内観の話が影響したのか、小学校時代の同級生から現在かかわりのある人までが次々とあらわれてきました。ずっと気持ちの上で責めていた過去の職場の人が思いだされたときには、いかに被害者意識をもっていたかを思い知らされ、反面教師としてあらわれてくれた人を含め感謝の気持ちがわきあがってきました。
その後もだんだんと気持ちが落ち着いてくるにつれて、無言でいることが気に入ってきて、つづけたらもっとはまるのか、苦しくなるのか、もう2,3日やってみたくなりました。
こんな快適な時間となったのは、「大日如来や仏は私自身であり、礼拝することは私自身をうやうやしくあつかうことでもある」とか「自分の中に光があるから、たとえばリンゴをイメージすることができるんですよ」という話を聞いたことも影響していたのかもしれません。
自分の中のすばらしいものを拝んでいるんだと思うと、ネガティブな方向だけに意識が向いていかなかったようです。
いままで形式にとらわれているようで仏教がいやだったのですが、礼拝する宮島師の姿をみて初めて美しいと感じ、少し謙虚ということがわかったような気がしました。そのことで、卑下するのではなく、謙虚に自分の至らない姿を思い出す時間になったようです。
沈黙の時間が終わり、「謙虚と卑下の違い」について質問すると、宮島師は「ヒゲマンという言葉があります。卑下することは慢心であるという意味です。いじけた感じで満足し、勉強するチャンスを逃しているということです。謙虚とは自分が何ほどのものかいろんな角度から見えること、学ぶものとしての立場ですね」と話していました。
そんな体験をして、帰ってもつづけてみることにしました。そう決めたのは宮島師の「退屈してみてください」という導入の仕方が大きかったように思います。「毎日静かに座ってください」と言われたらむずかしく感じたでしょうが、退屈することならとりあえずだれにでもできます。
お経の後、15分〜30分座り、そのあと15分ほど静かに横になる時間がありました。その時間が心地よさとしてからだに残っていました。お経と静かになるという組み合わせなら、三日坊主では終わらない気がしたのです。
失敗も利用しちゃおう
長野から帰った二日後には沖縄にいました。それは私のドジがはじまりでした。2月にらくだ教育ネットワーク会議があるので、インターネットで格安チケットをさがしていると、ありました、申込期限は明日です。急いでチケットを購入しました。いっしょに塾をやっている常包さんと二人分です。
ところが翌日、日付を間違えて1ヶ月前のチケットをとっていたことが判明したのです。キャンセル料は35%かかることがわかりました。そのことを沖縄の石川さん(がじゅまるの木主宰)とフランス語を教えている堺さん(琉球大)という会議の担当者に常包さんが電話すると、「例会(集い)をやるから来たら? ドジを笑ってあげるから」と言います。笑ってくれるのなら気が楽です。こうして沖縄行きが決定しました。
着いたら活気ある市場で昼食、客引きの元気さに日本はアジアであることを思い出しました。それから、斎場御獄(せいふぁーうたき)というかつては王府関係者しか入れなかった拝場に連れて行ってもらいました。出発前に「なんで沖縄に行くんだろう?」と常包さんと話していたのですが、そこは心地よくそれだけでも意味があると思ったのでした。
夜は、らくだの塾をやっている石川さんの教室をたずね、生徒のお母さんと話していると公文式をやっていたときとの教材や指導法の違いを肌で感じた興味深い話が聞けました。そのあとは、郷土料理の店でおいしいお食事と泡盛の古酒(くーすー)で情報交換。
翌日は、例会です。行ってみると「岡山の二人に質問をしながら会をすすめましょう」と石川さんが切り出します。どうやらゲスト扱いになっているようです。
ほとんど知らない二人に質問をしろと言ってもムリだろうと思ったのですが、14人の参加者の自己紹介と質問で会は進んでいき、2時間の予定が1時間オーバーで終了しました。
そのなかで、「自分は会社がなかなか辞められなかったけど、辞めるとはっきり決めたら辞められました。そのあいだのできないことができるようになる体験がよかったから、高2の息子にできない体験や決める体験ができるらくだ教材をやらせたいんです」という人がいて、「お母さんのできない体験がよかったと言えば言うほど息子さんはひいていくかもしれませんね。私はいつもお母さんにらくだ教材をやることをお勧めしています」と言うと「そうだ。私がやりたかったんだ」とすっきりしたようす。
常包さんが「子どもに言いたいことは自分がやりたいこと」と言うと、うなずきながら「私もはじめようと思います」「夫婦ではじめようか、私とこどもがはじめようか迷っているんです」とあと二人の人が言うので驚いてしまいました。
そのあとも興味深い話がつづいたのですが、沖縄大学の4回生で卒業後は日本語学校の教師になるという人の「教育実習に行き、やる気になる授業をしようと、ていねいにやっていたら、現場の先生から『そんなぺ−スじゃカリキュラムが終わらないから全員に合わせようとするな』と言われ、やる気をなくした。魚を配るんじゃなくて、魚をつる竿や網という道具を手渡したいんだけど具体的なものがなくて・・・」という話がよかったと感想に書いた人が何人もいました。揺れている感じが共感を呼んだのでしょう。答よりも問いがだいじとあらためて感じた話でした。
今回は、沖縄に行く意味を頭に納得させるのが旅のテーマでしたが、「もてなし・つづける場づくり・プロデュース」がお土産となりました。心あたたかいもてなしに加え、間違ってチケットをとったばかりに来ることになった二人をゲストにしてしまうというプロデュース力とそれを迎えられる場に出会い、なにからでも学べるものだと実感しました。
こうして長野と沖縄で1週間を過ごしたのですが、まず行くことは自分で決めて、行ってからはなりゆきにまかせたことで、思いがけない体験をすることができました。なりゆき、つまり、「自分で決めないこと」と「自分で決めること」のはざまにおもしろさを感じた旅でした。
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