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えと・おーるつうしん44号
[2006.01.30]
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■げんきだより
げんきだより NO.49 より
とらいあんぐる体操教室 by Y.A
はじめに
「聴く」ことが、苦手な子どもが増えてきています。これは、子どもに限らず大人にも当てはまるのかもしれません。人の話を聴こうと思うと、まず、からだの全てをそちらに向け集中しなければ、聴けません。私は最近、特に強くそう感じます。これは、歳のせいかもしれませんが、テレビを見ながらの会話はできなくなりました。
今、玉野の小学生のクラスは体育館の使用状況の都合で、3年生から6年生までを同じ時間で行っています。1時間30分という時間にしてありますが、人数が多い為、事がさっさと進みません。「静かにしましょう」なんて言葉で静かにはならず、「うるさいよ」と何度か大声を出し、子どもたちの声を押さえてから話しだすのです。私が何かを話しだすと、何人かの子どもはその出てきた言葉一つ一つに反応し、喋りだします。最後まで聴くことをしません。子どもの中で沸き上がる喋らざるを得ない気持ちは、どこから起こってくるのでしょうか。何を聴いてほしいのでしょうか。何を伝えたいのでしょうか。
竹内敏晴先生が本に書かれた『情報以前(聞くことの倫理)』を読み返していると、こんな文章が目に留まりました。
元来人の話を「聞く」とはどういうことなのだろう?
「わたし」が「あなた」に話しかける。 聞き手はわたしを振り向き、わたしを見つめ、わたしの息づかい、わたしの、ことばを探して立ち止まったり、宙を見つめたり、もどかしく手を振ったりする身動き全体に、自分に差し出されようとしている「こと」を受け取る。「聞く」とは、話しかける人を、姿と声の全体で受け取ることだ。これが、ふれ合う、交流する、コミュニケートする、ことだろう。聞く、とは、話されたことばの文章内容だけを抽き出して取り込むことではない。いわゆる情報の伝達とは全く違う出来事なのだ。
この日、レッスンが終わって、さあノートをつけようと移動している時、まこちゃんが私に話しかけてきました。「先生、すもうはせんのん?」次のことを考えながら歩いていた私は、「すもう、ねぇ」と生返事をしたのです。私の頭が「すもう」に切り替わる前に彼が怒鳴りました。「なんじゃ、先生無視かよ。もうええ。」目には涙を溜めています。私は言いました。「先生は、返事をしたでしょ?無視なんかしてないよ。すもうを考えようとしていたのに、なんで待ってくれないの。」
数日後、この竹内先生の文章を読み、胸を突かれました。話しかけてきたまこちゃんに、私のからだは向いていなかったのです。話しかけられた時、私はまず自分の世界を無にしなければならないのです。自分の世界を持ったまま、人の話を聴くことはできません。子ども以前に私の問題です。
ケンカで何を学ぶ
さとしくんとしょうごくんが大ゲンカをしました。レッスン前のことです。さとしくんは、ショックからこの日体操ができませんでした。レッスンが終わって、話を聴こうと、お母さんの側にいたふたりを、離れた所に誘いました。「先生は見ていなかったから、何があったのかわからないけど、相手に言いたいことあるでしょ?言ったら?」しばらく黙ってにらみ合っていたふたり…すると、突然、さとしくんが「ふっふっふ…」と笑いだしました。そして、しょうごくんも「えへっ…」と笑うのです。
私にはまったく理解ができませんでした。ちょっとしたケンカではありません。顔は腫れ、血を流し、レッスンができないほど動揺していました。なのに…。
「うわーっ、信じられないわ。あんなに怒ってたのに。どうしても許せなくて、ブチ切れて、ケンカしたんでしょ?鼻血が出て、目を蹴られて、まだ痛いんでしょ?笑えるの?もう笑えるの?」私が訊くと、とたんにふたりが顔を一変させました。さとしくんは目に涙を溜め、「痛かったんじゃ。今でもまだ目が痛いわ。」黙っていたしょうごくんが口を開きました。「おまえが、洗濯ばさみ投げてきたからじゃろ。」「でも、さわられたくなかったんじゃ。」「それなら、投げてくるな。」「オレの上に乗って殴ったじゃろー。目を蹴られて今も痛いんじゃ。」「オレだって頭ぶつけられて、たんこぶできたんじゃ。壁に穴があいたじゃねえか。」…悔しさが吹き出し、涙を流し真顔になり、その場の空気が重くなってくると、その空気を振り払うかのように「えへっ。」と相手の機嫌を伺うように愛想笑いをします。そこに、今の子ども同士のつながりが見え隠れしています。私は敢えて何度か重たい空気にもっていきました。理由は何にしろ、自分がこれほど傷つき、相手もこんなに傷ついた、そのことを適当にごまかさないでほしい。そう思ったからです。
「言いたいこと言えたかな?自分がこんなに痛かったってこと、相手も相当痛かったということ、忘れないで。覚えておいて。…じゃあ、おわり。あとは自分で考えて。」
心配したお母さんが、「握手して、ごめんなさいが言えた?」と子どもたちに尋ねました。私が答えました「すみません。そんな気分ではありません。お互い仲直りなんて今はできないと思います。」
今の仲直りは無理でしょう。でも、気持ちと違う「ごめんなさい」は「取り敢えず」の形でしかないのです。遊びたいと思ったら、子どもはまたすぐ一緒に遊びます。子どもの力を信じたいと思います。
長縄とびの順番を待っているときでした。「うるせー、やれるものならやってみろ。」その声に振り向くと、かいちゃんとともくんが両腕をつかみ合っています。ともくんはもうすでに泣き始めていて「嫌じゃ言うのに、するな。」と言うのが精一杯です。ほぼその場の空気が読めた私は、ともくんに「やっていいよ。」と促したのです。その言葉に反応したかいちゃんは「やれるものならやってみろ。あとで泣かしてやるからな。」と言いました。腕を握ったまま、泣きながらともくんがじっと迷っています。「がんばれともくん、やってごらん。」もう一度、そう言ったとき、ともくんのからだが動きました。かいちゃんを背負い投げにしたのです。投げられたかいちゃんは、目を三角にして、「おぼえとけ。」と言いましたが、その声にはちょっと戸惑いがありました。そして、「ともき、なかなか強いな」と感心したように言いました。わっーと泣き出したともくんでしたが、しばらくすると、みんなと一緒に縄跳びを始めたのです。ともくんは、今まで我慢をしていました。おとなしい子どもではないのですが、自分の中にため込んでしまい、外に吐き出すことをしていませんでした。泣き出すといつまでも長引き、レッスンが終わっても立ち直れないのです。今回、ともくんは泣きましたが、すぐ立ち直りました。ケンカしたときいつもなら、家に帰ってからもグズグズしている彼が、今回は、そんなことがあったことさえ、お母さんは気づかなかったと言われました。
今回、相手がかいちゃんだったから、胸を借りました。彼はワンパクですが、裏表のないまっすぐな子どもです。彼じゃなかったら、私はともくんに「やっていい」なんて、言えなかったかも知れません。
子どもがケンカをして傷つく様子を親は見たくありません。傷つけても、傷つけられても、胸が痛く切ないものです。できればケンカなんかしてほしくない、友だちと仲良くしてほしい、いつもそう願っているでしょう。そんなお母さんの気持ちは、同じ母親としてよくわかります。叩かれても叩き返してはダメと教えるお母さんがいて、その場の様子しだいでは、やっていいよ、という私のような大人がいる。対処の仕方は違っても、お互いが信頼し合っていれば、違った視点から子どもを支えることができるのだと思います。
友だちだからこそ
ゆったりクラスでドッジボールをしていました。「当てられる」ということ、「当たったら外に出る」ということを、受け入れることが難しい子どもがいます。ルールが理解できないのではありません。わかっているのだけれど、気持ちがついていかないのです。大なり小なり誰にでもある気持ちです。
たっちゃんは、今ドッジボールが楽しくてたまりません。体操教室にやって来るとすぐに、「やろう」と言います。今回は男の子チームと女の子チームに分かれてゲームをすることにしました。しばらくして、たっちゃんにボールが当たりました。「出ようね」という私の言葉に「イヤだぁ」と泣き出すたっちゃん。「外からボールを投げたらいいんだよ。当てたらまた中に入れるよ。」「イヤだぁ。絶対に出ん。」…「そうか。たっちゃんがボール当てた人が、外に出てくれなくてもいい?」たっちゃんは、目を見開いて、「わかったわぁ」と怒りながら、それでも外に出ました。前回はどうしても外にでられなかったのに、今回は進歩です。その後です、彼は受け取ったボールを、逃げ遅れて目の前にいた、さきなちゃんの顔面に思いっきりぶつけたのです。もちろんわざとしたわけではありません。さきなちゃんは泣きながら私のところに来ました。そのときです。「んー!!」たっちやんの目の前で仁王立ちになったゆみちゃんが叫びました。ゆみちゃんの全身での抗議です。たっちゃんはハッとしたように顔色を変えました。さきなちゃんに悪いことをしたと感じていたたっちゃんは、ぐっと込み上げてくるものを呑み込みながら、「ごめんな。ごめん…」
私が言葉を挟もうとしたその時、ゆみちゃんが言いました。「いっしょにしよぅ、ドッジボール、またいっしょにしようね。」やさしい言葉でした。
先生より友だちに言われる方が身に応えることがよくあります。そして、先生より友だちに言われて嬉しい言葉があります。
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