37 えと・おーるつうしん37号 [2004.11.30] ■竹内敏晴レッスン
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竹内敏晴からだとことばのレッスンご案内  by NAGI


 2004年11月3日(祝・水)9:30−16:30
 さんかく岡山(表町3丁目)


生き生きとリアルに生きるからだをもちたい。
自分が何を感じ、考えているのか、はっきりさせたい。
自分に中心がなく、人に左右されてばかりいるようで、自分が何なのか手応えがない。これがまぎれもなく自分だと言うものがほしい。
人の話していることばが自分のことばなのか、人のことばなのかはっきりしない、手応えのある自分のことばをもちたい……。

      ――東京賢治の学校,竹内レッスン紹介のことばより

 恒例の新年2日間レッスンのご案内をいたします。からだを解放し、ことばに命を与えるきっかけとなる2日間を皆様方と共有できたらと思います。
場所はまだ決まっておりませんが,岡山近辺の、交通の便のよいところを探しております。参加費は原則として要した費用の頭割りです。先着20名ですので、お早めにお申し込みください。



NAGI 

 夏以来仕事が忙しく、一度にいくつもの段取りが頭の中で進行している状態だった。
一日休んでもすべてが狂ってしまうような綱渡りの毎日。病気になるゆとりすらなかった。
そんな中、11月3日のレッスンは最大の楽しみだった、はずなのに。
・・・私がレッスン会場で見たのは、「仕事をしているときのわたしを持ち込んでいるわたし」だった。
それにいち早く気づいたのは、レッスン仲間のUさん。
「NAGIさん、まわりばかり見て、レッスンに集中していないね」
会場の全体的な様子を見て、うまくまわっているか、いつのまにか無意識のうちに気を配っているわたし。それは、参加者各人の問題で、主催者だからといって私が「気を配ったりする」問題ではないのに。
こういう動きをするのは、仕事をしているときのわたしだ。

2人1組で「ゆらし」をするとき、そこに存在するのは、ゆらす「わたし」とゆらされる「あなた」。生の人間同士が相対する場であるはずなのに。その貴重な場をわたしは「生のからだを待たない」状態で過ごしてしまった。
ペアを組んだ方に申し訳ない。そして、「生のあなたと私が出会う時間」をそんなふうに使った自分のありようがくやしくてならない。

そのときのわたしの状態は「呼びかけのレッスン」でも痛いほど自覚された。
「素(す)」になれないわたし。
なんのためにレッスンの場にいるのか――。呆然とするばかりだった。

あれから1ヶ月経った。
相変わらず「自転車操業」の毎日。でも「仕事のからだ」を持ち込んだことを悔しいまでに自覚できたおかげで、また別な一歩が始まったような気がする。
レッスンは、活き活きとしたからだと声を取り戻す場と言われているが、私のような人間には、自分の現在のありように気づく場なのかもしれない。
そこから出発するだけのことなんだ。
そう思うとまた次のレッスンが楽しみになる。性懲りもなく、といったところかな。


「私」は「からだ」としてここに在り、世界に棲む。
「からだ」として他者に向かいあって立つ。

 思想する「からだ」――それは思想への境界線に立ち
 耳を澄ませている「からだ」である。
                  ―竹内 敏晴




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