25 えと・おーるつうしん25号 [2002.11.25] ■「竹内敏晴講演会」ご案内
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旅物語らくだに乗ってprocess19
いつのまにか思いがけないことが… by M.Y(創育舎)

遠回りが近道らしい・・・

らくだの塾を主宰している加藤裕子さん(千葉県)から届いた「遠回りが近道らしい」というファックスをご紹介します。

 最近考現学(書くこと)がまあまあ続いている。以前、通信を出すために毎日書こう!と思ったときはすぐできなくなったけど、今は書くことに目的意識がない。ただ、研究素材(考現学ネットワークで流されるテーマ)には毎回返事を書こうと決めただけ。毎回が原稿になりえるような完成度を伴うように・・・とがんばった時期もあったけどできなくなって、今はつぶやきのまんまで良しとしようと思ってる。
 だけどそれだけでも、この頃けっこう変わってきたと自分では思う。何かの講演会に出たときに「問い」が生まれやすくなった。人から何か聞かれたとき、自分の意見がとっさにでも語れるようになってきた。で、その結果、講演会が終わった後に「先ほど質問されていた方ですよね・・・」と、話しかけてくださる方がチラホラ出てきて、新しい出会いができるようになってきた。問いも、出会いも、私はずーっと求めていたものだと思うけど、こうして書くことを続けることとは無縁というかちょっと違うと思っていたはずだったのに、どうも無縁に思えなくなっている。
 うまく言えないのだけれど、サッカーがうまくなりたい!という目的(気持ち)があるからこそ、ボールに触れる前に走りこんで体力をつけることが大事なように、目的に一見無関係に見えたり、遠回りに見えたりすることを続けることが、そういうことを「決める」ことが、一番の近道だったんだ・・・と自分で体験しているように思う。

 昔は、「出会い」を求めたら出かけていった。だけど、百人の場に行っても出会いを感じられなくて、空しくなった。「問いが大事」と思うと、問いを出そう出そうと思うのに浮ばないよォ〜と落ち込んだ。でも、そういう直結した努力じゃなくって、効率的と一見思えないところに近道はある。「A高校に合格したい→だから数学で70点とりたい」の目的があればあるほど、教え込まれた知識でなく、ノウハウやテクニックでなく、「自分で学ぶ力」が必要で、その力はたんたんと計算のプリントを続けることで育ったりする・・・。そんなことを感じ始めた。

 加藤さんの考現学を読み終えて、なんだかジーンときた。なぜだかわからない。読んだあとなにかを書きたくて、でも、どう伝えていいのかわからない。加藤さんは「出会い」と「問い」を求めていたという。それがいつのまにか実現し、それは「つぶやきのまんまで良し」として書きつづけることと無縁には思えなくなったという。実践してきた人の言葉だった。

つぶやきのまんまで良し

 ものごとを実現するためには、あきらめが肝心ときいたことがある。実現させたいという気持ちを手放す、つまり、執着していてはだめだということらしい。でも、加藤さんの場合はそんなことも忘れていた頃に実現しちゃったという感じだ。
 加藤さんは、「研究素材に毎回返事を書こうと決めただけ」だという。この決め方がポイントらしい。完成原稿ではなく、つぶやきのまんまで良しということだから、「できる範囲で」を続けるということだ。この決め方だと、書くたびに「できた!」という感覚を味わうことになる。「できた」という喜びを味わい続け、気がついたら、「やりたかったことができちゃった」というのだから、なんて贅沢な決め方なんだろう。

自律=ストイックな修行?

 「A高校に合格したい→だから数学で70点とりたい」の目的があればあるほど、教え込まれた知識でなく、ノウハウやテクニックでなく、「自分で学ぶ力」が必要で、その力はたんたんと計算のプリントを続けることで育ったりする・・・。
なんて加藤さんは書いていた。私のイメージでは、たとえば受験のことを考えると、毎日コツコツと決めたことをやり続けるみたいなストイックな感じがつきまとっていた。それは、野球やテニスがうまくなりたかったら毎日素振りを何百回とやりつづけたものだけが上達するというような古いイメージ。

3ヶ月やれば道は開ける?

 「脳の仕組みと科学的勉強法」の著者池谷裕二さん(東大で脳の研究をしている人)は、「勉強を始めてから効果がきちんと現れ始めるまでに、どんなに早くても3ヶ月はかかる」と書いています。勉強量と効果は、単純な比例関係にあるのではなく、等比級数的な上昇カーブを描く、つまり、最初は効果が薄く、続けることで「山頂に立ったように急に視界が開け、ものごとがよく理解できるようになったと感じるときがある」のだそうです。

 でも、そこまで達するまでにあきらめてしまうことが多いように思います。「私は挫折したから・・・」とか「馬鹿だから・・・」という話も聞いたことがあります。勉強にかぎって言えば、やめてしまっただけの話だと思うのですが・・・。けれど、前もって効果がわからないのだから、よほど確信がないかぎり、やめてしまってもおかしくはない話です。

 さきほども書いたように私は、それを乗り越えるのは、自分を律する厳しさだと思っていました。さきほど、辞書で調べてみたら、「律=きまり、規則正しい調子」とありました。ということは、「律する=きまりをつくる」と考えることができます。そう考えると「律する」が、加藤さんが書いていた「つぶやきのまんまで良しとする」という決め方と結びついてきました。つまり、厳しさを押し付けるのではなく、「自分がやりやすいようにきまりをつくる」のです。

 さきほど教室で「今度のテストは9教科あるからムリだ」と話していた中学生がいました。前もって、どれだけやらなければいい成績が残せないなんて考えるだけでうんざりしてしまうでしょう。 池谷さん(「海馬」がヒット中)は、「普段の勉強では、一つの科目にできるだけ多くの時間を費やしましょう。どの科目も均等に勉強するより、一つの科目を集中して勉強する方が長い目で見れば効率的なのです」と書いています。ひとつをマスターするとほかのことの習得が容易になることを「学習の転移」というのだそうです。

実際、得意科目ができるとほかの科目の成績が上がるということもよくあることです。1教科に時間を費やした方が効果があるというのなら、毎日やることの決め方が容易になります。英語の問題集を2ページとか数学を100問とか、「自分がやりやすいきまり」をつくればいいということになります。「できた!」と実感できることをやればいいのです。

らくにがんばりたい

 とここまで書いてみて、私の興味はラクにがんばるっていうことかなあと思う。「つねに成長しつづけたい」という上昇志向願望の強い私と、「がんばりたくない」という癒し系の私との間でいつも揺れるのだけれど、そのどちらだけになっても欲求不満になる。

 教室にいると「こんな因数分解や理科なんて社会に出てから使うの?」と聞かれることがある。たいていは「オレは使ったことないね」と答える。勉強をやっていると、これって効果があるのだろうか? とか 意味がないことをやっていていいのだろうかと不安になることがある。
 「何で勉強するの?」って、「なんで生きてるの?」と同じくらい決まった答えがあるわけじゃない。やってもいいし、やらなくてもいいこと。ただし、やってみないと「どうしてやるのか?」はわからない。「こんな勉強」が「こんな仕事」に変わっても同じこと。

 加藤さんが書いていた「自分で学ぶ力」って、こんなことの繰り返しでついていくのかなと思う。「試行錯誤力」といっていいのかもしれない。学び方って、学んでいくことでしか身につかない。できたことができることを育み、そのできたことがまた次のことを育み、そして、いつのまにか思ってもみなかったことが・・・。



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