24 えと・おーるつうしん24号 [2002.09.10] ■「アニミズム」という希望と…
■最近のいろんなこと
■ふぞろい野菜村便り
■口先徒然草 9
■旅物語 らくだに乗って


旅物語らくだに乗ってprocess18
かっとうな日々      by M.Y(創育舎)

ある日の夕方

 ある日の夕方のこと。我が家には母と中2の息子と私の3人がいました。その日はからだがだるくて、夕方まで寝ていました。目がさめると7時半で、「もう起きなきゃ、もう起きて夕食つくらなきゃ。ジャーにご飯もないはず・・・」と思っているうちに時間が過ぎていきました。8時を過ぎ、やっとこさ起きだしてリビングに行ってみると、車椅子の母が「焼芋とってきて」と息子に頼んでいます。「ああ、まだ夕ご飯食べていないんだ」と思いましたが、からだがだるくて動きません。「ラーメン作ってや」と息子に頼むと「きょうはからだがだりーからだめ」。「オレもだるいからだめだ」と言ってから、「ほっといたらどうなるんだろう」とテレビをみていたら、「パスタしようか」と母がお湯をわかしにいきました。「やっと動きがあったか」と思っていると、「しょんちゃん、つくって」と母に頼まれました。それから、重い腰をあげてパスタと冷ご飯の残り物でリゾットをつくったら、息子も協力してくれ、予想外においしく食べられました。なんの変哲もないごくふつうの料理でしたが、空腹具合と体調に合っていたのでしょう。

私はどうしたいの?

 母が脳梗塞で倒れて一年半になります。1年前から通院など定期的な外出にはタクシーをお願いし、1ヶ月前からは週に1度ヘルパーさんに来てもらっています。そして、整体の先生には週に2,3日来てもらったり、2,3ヶ月に一度は散髪もお願いしています。そんなふうにさまざまな人たちにお世話になっていて、母も話し相手ができて楽しそうです。
 それでも、ここ10日ほど頭痛がつづき、体調のすぐれない母は毎日のように「頭がいたくてたまらない」、「最近歩いてないから、ふらふらして歩けない」「このまま治らなかったらどうしよう」等々、弱音が続きます。
 「母は心配性なんだから、聞くだけ聞いていればいい」と思ってはみるもののこちらもイライラが募ります。「もういい加減にしてよ」と言いたいのですが、なかなか言えません。「何でも言い合える関係になったら、母ももっと活き活きするんじゃないか」と思ったりもするのですが、そこまで母の人生に入り込みたくないというのが本音です。一方で「弱音の吐けるわがままな場所があってもいいじゃないか」とも思います。かつて「また文句ばっかり言って・・・」と言ったとき、母も「深い意味で言ってるんじゃないんだから、聞き流してくれればいいのに」と言っていましたし。

思いやるけど、気にしない

 ある日、教室で宿題のプリント6枚全部を白紙のままもってきた生徒がいました。「白いねえ。今日は何枚やる?」と聞きました。彼は1日に1枚やることにしているのですが、「もしかして後ろめたさがあったら、『3枚』とか『4枚』って言うだろうか?」とあえてたずねてみたのです。すると、一瞬の間をおいて「1枚!」と少しはにかみながら、でもきっぱりと答えていました。その潔さがいいなあと思いました。
 私も彼のように潔く「リハビリが進むように厳しく接しよう」とか「すべて受けいれよう」とか決められたらいいのにと思ったのですが、なかなかスパッと割り切れないものがあります。

 自分でもどうしたいのか、はっきりしない日々を過ごしていたら、インターネットで見つけた「思いやるけど、気にしない」(ほぼ日刊イトイ新聞)ということばに惹かれました。「母の言うことを気にせず、聞き流したい」という願望に合致するような気がしたからでしょう。母の言うことが気になってしまうのは、「なにかやった方がいい」「積極的にかかわった方がいい」という価値観の表れです。そんなふうに「なにかをやる」ということを前提にしているのが「思いやる」かと思いました。となると次にくるのが「気にしない」ですが、これが曲者です。「気にしない」と思えば思うほど「気になってしまう」のですから。
 「なんだやっぱり意味のないことばだったのか」と思い始めたとき、「思いやるけど、気にしない」ってスパッと断ち切るための言葉なんだと思い当たりました。「イトイ新聞」には読者からさまざまな要望が寄せられるようなのですが、「こたえられない要望は気にしないことにする。でも、無視するんじゃなくて、思いやっているからね」という意味なのだと解釈したのです。

ジレンマを断ち切る

 私の場合だと、「母の言葉を聞くと、受けいれようとしてしまう。でも、これ以上受けいれない」と、思いを断ち切るための呪文が「気にしない」という言葉になるようです。「受けいれたい」(欲求[1])と「受けいれたくない(自分のことを優先したい)」(欲求[2])のジレンマを断ち切る瞬間の呪文なのでしょう。つまり、裏を返せば「ジレンマはつづくよどこまでも」ということなのでしょう。

 こうして時間をとってみると、母との関係だと思っていたことのなかに、私があらゆるところでやっているパターンが見えてきました。
 いつも「役に立ちたい」(欲求[1])と「頼られたくない(自分のことを最優先にしたい)」(欲求[2])のあいだでかっとうしているのです。「なんだどこでもやっていたのか」と思うと力が抜けてきました。かっとうな日々は、当分のあいだつづいていきそうです。



目次へ

Since 2001.11.19, renewal 2006.1.28 無断転載禁止