「えとおーるつうしん」の歩み
No.1(1998.10)〜No.10 (2000.5)
子育てをしながら仕事を続けていた私が通信を発信したり、イベントを主催したりするようになったのは、15年前の苦しい日々がきっかけです。思春期を迎えた子どものことがどんどんわからなくなってきて、自分ではどうしようもなくなり、様々な学びの場に出て行くようになりました。親子人間学研究所の平川洋児さんの講座で目が開かれたのもこの頃のことです。無我夢中の数年間ののち、偶然鳥山敏子さんのワークショップに参加しました。以来数年間、岡山で「鳥山敏子ワークショップ」を開催することになりました。私にとって鳥山ワークは一言でいうと「苦しいけれど温かい場」でした。そして、自分の問題に向き合うのは結局自分しかなく、自分の内で深めていかなければならない、でも仲間とつながっていくことも大切だと思い、通信発信を決めたのです。
鳥山ワークに触発されて津山の服部純子さん、藤田照子さんたちによって「スピリッツ21」、文殊・ぶみかさんによって「吉備・賢治の学校」が立ち上げられました。市議会議員の横田悦子さんを中心とする市民グループによって鳥山敏子講演会も開かれました。私が鳥山さんを知るきっかけを作ってくれた八木真由美さんたちは川口由一さんの指導を受けて「自然農学びの会おかやま」の活動を開始、現在でも「田んぼの学び」を続けています。
「ふぞろい野菜村」の小野田光子さん、創刊当時「らくだの旅物語」の連載を始めてくれた横田正光さん、「美作賢治の楽交」の前原ひろみさん、「最近のいろんなこと」の冨岡紗智江さんのお母さん、鳥山敏子ワークショップを通じて、この頃からのお付き合いです。
注)鳥山敏子(東京賢治の学校代表,シュタイナー教育等の実践)
川口由一(自然農実践者、東京賢治の学校でも講習を行っている)
No.11 (2000.7)〜No.20(2002.1)
このころから鳥山敏子ワークショップは、津山を中心に開催されるようになり、前原さんたちが賢治の学校を立ち上げる準備も始まりました。私は主に講演会を開催するようになりました。今でも当時の講演会要旨を読むと、起こっている問題を捉える、鳥山さんの目の確かさに圧倒されます。「本気で生きる」「今を生きる」「私の中の絶対時間」という言葉は忘れられません。その言葉の重みは鳥山さんから出たものだからこそ、今でも私の中で強い光を放っています。
つながってきた人たちがそれぞれ活動を始めていて、通信には「平井雷太さんの講座」「シュタイナー教育講座」「べてるの祭り」などイベント紹介が掲載されるようになりました。平井さんに触発されて専業主婦だった、伊藤まゆみさん、小西稔子さんも「子育て」「地域」をキィワードにした活動を始められました。もちろんこの間、「自然農学びの会おかやま」や「吉備賢治の学校」も着実な活動を続け、原稿を提供してくれていました。
「高木善之講演会」を通して知り合った城内俊夫さんによる「口先徒然草」の連載が16号から始まりました。そして、20号からは鳥山さんのワーク参加がきっかけでスタッフになってくれた秋田裕子さんにお願いして「げんきだより」の掲載もスタート。
最初50部くらいで始めた通信もこの頃になると200部を越していました。我が家で楽しくおしゃべりしながら発送作業を行っていました。
この間仲間の協力を得て、鳥山敏子講演会以外にも様々なイベントを主催しました。公の母体を持たない私たちが講演会を開くとなると、資金面でリスクを抱えることになります。助成金や後援をもらうために様々な努力をしてきました。大変だったけど、その努力の過程で、またネットワークが広がったともいえます。今思えばしんどさよりも「ご褒美」の方が大きかったと感謝しています。そして、2002年の正月、岡山市市民活動支援事業として「竹内敏晴講演会」を開催することができました。岡山言友会の植山文雄さんと、秋田裕子さんの熱意が大きな後押しとなりました。岡山初の竹内敏晴講演会は、山陽新聞に活動を大きく取り上げていただいたこともあり、立ち見が出るほどの盛況でした。このとき以来、毎年2回竹内レッスンをしていただけることになったわけです。
注)平井雷太(セルフラーニング研究所主宰、らくだ教材開発者)
高木善之(地球村代表。環境問題などの講演)
べてるの祭り(北海道浦河の精神病患者の自主グループ「べてる」の講演など。
岡山では長谷敏明さんが始める)
No.21(2002.3)〜No.30(2003.9)
2002年5月に開いた「みんなが孫悟空」の上映会と鳥山さんの講演は反響をよび、「手作りミュージカルドラネコ座」の協力を得て6月の岡山市男女共同参画週間でも開催されることになりました。この映画は何回見ても涙が出ます。
以前からの友人中務久美子さん(はこべ会主宰)が自然や環境について寄稿してくれ始め、また鳥山ワークの参加者として知り合った「こんちゃん」も「この世的雑感」を寄せてくれるようになりました。私自身も誌面の埋め草として「NAGIの不思議日記」を載せるようになりました。書くことそれ自体が思考を深めるような気がしました。
さらに山陽新聞の記者である神辺英明さん、べてるの集いを開くときには長谷敏明さん、ずっと以前からのイベント参加者の長尾芳樹さんも書いてくださるようになり、男性投稿者が増えました。
このころ部数は250部になっていました。一回のページ数も24ページを超えています。いろんな団体からチラシの同封も頼まれ、作業がだんだん大変になってきました。でも、開催されるイベントはどれも有意義で、それを立ち上げた方のメッセージを読むことも、また開催後に寄せられる参加者からの感想を知ることも楽しみでした。
「手作りミュージカルドラネコ座」「岡山言友会」「Dreaming Tomorrow」「ステップハウスわ!」などのグループの活動紹介「ハロー、パーティ!」も回を重ねていきました。
No.31(2004.1)〜No.40(2005.5)
誌面には竹内レッスンの感想が載ることが多くなりました。鳥山さんが東京の学校の運営に専念するようになって、講演会やワークショップを開くのが難しくなってきました。と同時に私の仕事が忙しくなり、「ハロー、パーティ!」は「岡山カウンセリング研修センター」の紹介で連載を閉じました。「セルフラーニング」の講座も開かれなくなり、私の周囲の方たちのイベント開催も減ってきたようです。イベントが減ると新規購読者も減り、通信の部数を減らしていくことにしました。投稿は相変わらず多く、このころ平井雷太さんがご縁で知り合った澤根みどりさんと長女の紗智子さん、伊藤さんの長女の恵さんなど若い人も投稿してくれています。また、長谷敏明さんの長女、上田麻子さんが「なずな農園」で研修を始め「あさがお新聞」を書いてくれることにもなりました。
注)なずな農園(赤峰勝人さん主催の、循環農法による農園。大分県臼杵市にある)
No.41(2005.7)〜No.49(2006.11)
2005年春息子が大学進学して自由な時間が増えました。子育てと仕事とであんなに忙しかったときでも続けられたんだから,今度はもっと!と思えましたが、子育てで大変だったからこそ通信を出すエネルギーがわいたのだと思います。仕事も増え、150部に減った通信でさえ出す時間がとれなくなってきたこともあります。私も含めスタッフが50歳代になり、今まで抱えていた問題がシフトしてきたことを感じるようになってきました。私たちは「子育ての中で起こった問題」の中で生まれたグループです。自分を問い直すことは今でも続けていますが、「子育ての今」の旬を過ぎてしまったようです。読者の方々にはもういろんな新しいステージに飛び立った方も多いし、ここで一区切りつけることにしました。この通信によって、投稿者、読者の方々とよいご縁に恵まれ、豊かな日々をいただいてきました。改めて、感謝の気持ちでいっぱいです。
今後はお知らせをホームページに載せます。ご覧ください。また、これからも竹内レッスンの主催は続けていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。
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